衒学者の回廊/園丁の言の葉:2005

人類史に関係のない神秘思想などというものはない
そして神秘と名付けられるにふさわしいことは唯一つであり
それは同時に神秘ではないということについて

2005-09-11
 
English version
  

体験自体は私事に属することではある。留学中の1991年の1月末に私に起こったある名状し難い体験は、私の人生において向かうべき方向を決定的に変えてしまったが、その受け取った内容が、如何にヴィヴィッドなイメージを伴うものであったにも拘らず、私の知性はそれをそれとして全面 的に肯定した上で受け止めることは難しく(もちろん、大いに振り回され、周囲の人を振り回したものの)、私の思い込みなのではないかという懐疑とは恒に背中合わせであったことは否定できない。だが、それはその後、3年以上に渡って私の内部に居座り続け、私を「あること」に対する恒常的な畏敬とも畏怖とも呼ぶべきなのかも分からない精神状態に釘付けにした。自分の「危機的」体験を裏付けるような証言か、それを中心的課題として論じているようなまじめな論考がどこかにありはしないかという思い(あるいは否定されて欲しかったかもしれない)が生じ、それから経済の許す限り神秘主義やシンボルのリソースの収集が始まった。

それら神秘主義関連図書に共通する事は、ほとんどどれもおなじか似たような図版の複製を見せ、それなりの博物学的な必要最低限の解説を用意しているにも関わらず、一番肝心なところを説明していないと感じられたことだった。つまり、こうした図版集はほとんど何の説明もなしに、ただその図版を読者に見せる(そして勝手に考えさせる)ことが目的なのではないかと思われるほど、一致して紋切り型であるか単に網羅的だった。そして、ちょっとましな解説に出会っても、やはり肝心なところに言及するとなると、いきおい曖昧かつ迂遠な表現になるという共通 の傾向はやはり否めないのであった。

ここで私が考えたのは、ひょっとするとこうした図版の提示者自身が、自分の「見せているもの」の意味をまったく理解してはいないのではないか、ということ。あるいはこうした図書に現れる図版の内容が重要であればあるほど、それが本当は何を意味しているのか語るのに提示者本人が「ためらい」を感じているのではないかということ。そのどちらかであるということであった。それが、事情を了解しない第三者の目には、どちらも「神秘主義」であると映る。

ただ、特に有名な作家の中には、博物学的な網羅主義に陥っているとしか思えない、関連のありそうなものすべてを、ただ一見して関連がありそうな印象を以て、どれもこれもを同じ札のついた袋の中に雑多に詰め込んだような印象を与えるものもあって、その博物学者本人が自分の扱っている対象の重要さの度合いを勘案しているとは思えないことさえあるのであった。

私にとってこうした一連の図版との邂逅と自分なりの手探りの探求とは、ある具体的内容に関連していると思われる、古今東西を問わない、まさに歴史的著述の中の「証言探し」の試みでもあったのだが、1994年秋の帰国後、直ちに開始した歴史や宗教研究家による和訳されている書籍の類の乱読の中で、遅ればせに出会ったのがルーマニア出身の宗教史家・比較宗教学者のミルチア・エリアーデであった。

彼の大著『世界宗教史』の第二巻の中の「ヘレニズムの錬金術」の章における記述に、相変わらずの、いわゆる「論理実証主義的な冷厳な態度」が不可欠に求められるらしい、悲しいほどにアカデミックな学者の論述の中に、論証不可能なある内容についての「明らかな暗示」が行間に残されているのを発見したのであった。それはほとんど詩人による詩の言葉として聞こえてくるようなトーンと警鐘の響きをたたえた明かなメッセージとして私には届いたのである。

この日、私の個人的体験によって得たある種のビジョンと歴史体系が、もはや「私という個人」に属する幻想の類でないことが確固として決定付けられたのだった。いったいどれだけ古い起源を持つものなのかが分からないような象徴の体系が、現代人の中に再生され再構築されたのであった。そしてエリアーデ自身の書籍を始めとして、立て続けに幾人かの著作者による言葉の数々の中にも、同様の「内容」についての暗示や、明らかな言及を次々に見出したのだった。それらは、およそ言葉にできないことを言語化するという途方もない先人たちの努力の賜物であった。

故あって、現在、二度目の通読を行い始めた『世界宗教史』であるが、その第1巻の巻末にある訳者(荒木美智雄)による解説の中で、再び驚くべき記述を発見した。それはエリアーデが高く評価し大いに魅せられていたというハシデウの「歴史に関する大胆な仮説」というものであった。荒木氏によれば次の3つにまとめられるという。

冗漫かつ韜晦に感じられるかもしれないが、何を語っているのかを理解できる人には明瞭にその意味が伝わる内容である。

(引用開始)
1.認識論的なレヴェルでは、歴史の解釈学は「総合の要請」を必然的なものとする。

2.歴史を書くことは、歴史的状況の深い理解を前提としている。この理解は、現実的に、聖なる、あるいは象徴的なる超歴史的秩序の意味へのイニシエーションなのである。この種の理解は物語としての歴史の価値を排除するものではなく、具体的な文化や共同体を構成する、基本的な宗教体験の重要性を承認する歴史を要求する。そして、これらの具体的な体験は、神秘とシンボルにおいて顕わにされているのである。(太字は引用者による)

3.現象の起源に帰ることの重要性である。それは、歴史的に日時を測定できる起源と言うことではなく、存在的な出来事、存在の与えられた質、あるいは構造の最初の体験を意味している。聖なる現象の根源的な意義を把握することによって、われわれは歴史の解釈することができるようになる。なぜなら、その理解こそ解釈の過程全体を生み出し、導き、体系化する意味の「中心」を用意するものであるからである。(太字は引用者による)

(引用終了)

長く引用したが、私には「歴史の(秘密への)理解」が、今という歴史的「時点」への理解そのこと自体に言及する、これ以上によく書かれた記述を想像することができない。全く持って、戦慄すべき正確さで語られている。もちろん、詩の言葉を除く、いわゆる「論理実証主義」的なマナーに則った記述、という「狭い世界」の論述様式の中での話であるが。

どれも比較困難なほど重要なことが書かれているのであるが、特に筆者が注目した記述は2そして3である。ここでは、「イニシエーション」と呼ばれている体験が、まさに「歴史」とその起源への理解ということと不可分であることを、如何なる曖昧さも排除したトーンで語っているのだ。

ここで私が言い換えた「歴史の秘密」とは、まさに「セーフェル・ハ=ゾハール」(光輝の書)に書かれている「この世界は、ただ秘密によってのみ存続する」に関わるものであり、それは、これが「秘密」でなかったら、いまわれわれが生存する「壊れつつある世界」は、いまの形で存在すること自体ができなかったという意味での「秘密」である。これが「秘密」と化すことなく、大多数の「生存者」にとって当たり前の前提であった世界(時代)は、われわれが眼前に目撃しているようなスケールで「間違う」ことがなかった。だが、それが「秘密」になった時に、始まりがあって終わりがある世界というものの「起源」への記憶が喪われた。そして、いまの世界を成り立たせるためには、それが人類共有の財産であってはならないということになって忘却されたか、あるいは、その「自明な出来事」は特定の人間集団の中だけに注意深く隠匿された。あるいは、俗化された神秘主義結社における通 過儀礼の形で、その意味も解されることなく伝えられることとなった。

そして、その隠匿、もしくは喪失こそが、われわれの眠りを意味し、この世界を耳を覆いたくなるほどの喧噪にしているのだ。つまり、夜の世界の彼らは「目覚めて」いたのに、昼の世界のわれわれは「眠って」いるのだ。その眠りがわれわれを「間違わせて」いるのだ。

ただし、その隠匿は局部的なものであったし、それらは神話の中や建築や美術といった表現の中に保存され「それ」と了解されることなしに、あからさまに、露出されながら伝達された。それはあらゆる喧噪や混乱の中で、ひときわ輝く徴として、いまでも奇跡的に生き続けている。(私がいまもこうして生き続けているのは「俗中の聖」という扉が、あちらこちらに未だあることを認められるからだ。)

そこにこそ、「現象の起源に帰ることの重要性」とそれに至る「鍵穴」がある。つまり、世界を成り立たせる「秘密としての歴史的事実」の再共有化・顕教化が、神話解釈・宗教の包括的理解の眼目なのである。つまり、「それはもはや秘密ではない」というような「歴史認識」の回復こそが、「今後の世界」をかつて起こった如く終わらせるか否かの、ターニングポイントとして求められる。すなわち、エリアーデによって開示されようとした宗教の本質的役割というものは、それほどかように緊急性を帯びたものであり、それはすなわちわれわれの生き残りに直接連関したものであって、いかなる科学技術による「解決策」にも、政治による「全体的解決」にも及びもつかないほどの重篤な意味を持った内容なのである。そして、「基本的な宗教体験の重要性を承認する」という研究や学問のより公正な評価がいまこそ求められるのである。

あるいは、二度とその重要性は承認されることなく、聖脱化の方向へ驀進する我らが文明の、その刻々と変化する傾向によってのみ、最期的で大団円的な「聖化」の企みは成就するであろう。そして俗化の究極の姿が、後の世界における「聖なる地所」を改めて捏造するであろう。

次いで、3の中で言及される「存在的な出来事、存在の与えられた質、あるいは構造の最初の体験」だが、分けても「構造の最初の体験」とは、言い換えれば、世界を現在のようにあらしめている構造の「端緒」を築く、かつて人類の上に現実に降り掛かった「最初の」体験のことであり、ほぼ約束されたかに見えるわれわれにとっての「最後の」体験とだぶって見えてくる巨大な薬玉 を天空で無数に割るような「大祭」である。最後であると同時にそれは最初の体験となり、その壮大な地球規模の体験は、人類を「精霊で満たす」という経験に匹敵するものにするだろう。

その体験は、起きたことがあまりに自明な時代においては秘密になりようがなかった。だが、その劇的体験を直接持っている人々は急速にいなくなり世代が交代されるに従ってそれは「言い伝えられたもの」へ、そして神話へと変容した(ヒロシマやナガサキにおける被爆体験の記憶さえ、世代交代によっていかに急速に失われ得るのかということを、すでにわれわれは目撃し始めている)。われわれが現在目にしている類の技術文明の恩恵を受けることのない後世の人々が、実際にわれわれ祖先(神々)の上に降り掛かったことを合理的に説明する方法や言葉はすぐに失われるが、禁止事項(タブー)として実生活を律する律法による強制的実践という形で、歴史時代以上の長さを持ったひとつの「夜の時代」を形成するだろう。そして、この変化することと記述すること自体を禁じる時代の始まりこそ、終わりも始まりもない時代の始まりなのである。

むろん、言い伝えられたことが「秘密」となり、「超歴史的秩序の意味」がイニシエーションを通 じてのみ伝えられ、それを共有する人々の間に「共犯関係」のみを築くようになるまでは。



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