衒学者の回廊/“超歴史的秩序”を巡る論考集:2006版

オメガ祖型とは何か:集団的浄化儀礼と<超歴史的秩序>について
On the Omega Archetype

2005-10-28
序文に代えて:飛び石の暗喩
English version
   

あなたは今、茶室に面した閑静な庭園にいる。あなたの眼前には飛び石があって、似たような材質の、あるいは場合によっては似ても似つかない材質の石が、ある一定の間隔を置いて(ほぼ等間隔に)埋められていて、その表面 が踏まれることを待っている。あなたはそれが一個一個の別々の無関係な石であるとは思わずに、それらの作る「動線」がひとつの道となっていることを認識している。そしてあなたはその石を踏んで先へ進んで行けば、その先には何かが待っていることを知っているのだ。

ここで飛び石の一つ一つが相互に関係していることを敢えて「論証」してから、あなたはようやくそこを歩くのだろうか? あなたはそれらが相互に関係していること、それらが一つの道 (path)を作っていることを直感的に知っており、それを敢えて疑うことなくその道を進むに違いない。時代や場所によって隔てられ、相互に無関係に見える象徴的な図像群を解き明かすことは、一列に並んだ飛び石を「ひとつの道」として認識することとその本質は変わらない。

だが、もしあなたが一つの石だけに注意を奪われ、一つの石について、その形状や材質、その加工法、埋められ方などなどにだけ詳しくなり、その石の専門家になったとしても、隣の石に気付くことなく、あるいはそれらが一つの道を造っていることにさえ気が付かず済ませてしまうかもしれない。たったひとつの石について深い造詣を得たとしても、それが一体どんな意味を持つのだろう。あなたはその一つの石の上にずっと佇み続けるのだろうか?

われわれは複数の石が作り出す一つの道に気付き、それを歩み、その先に指し示された<普遍的題材>に気付くことこそが求められているのである。ここには各論的な専門家になるのか、超歴史的視点の獲得、そして「総合の要請」に応えられる超専門的な洞察力(心眼)を得るのか、その分岐点に立っているのだ。

そしてわれわれに与えられた時間は、ひとつの石の上に佇み続けるには、すでに「限られ過ぎている」ことにも思いをいたさねばならない。




初出: entee memo 『飛び石の暗喩(閑話休題)』として発表



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