衒学者の回廊/園丁の言の葉:2005

韜晦の終わり #2(これを、あれから区別する)

2005-06-12
 
English version
  

「そこに方程式がある。とにかくあるんだ。」それは、私がおそらく言い続けてきたことかもしれない。そしてその方程式が適用される分野というものが世の中にはある。しかし「示せない、だがそれはあるんだ」と主張しても、だれがそれにまともに耳を貸そう。どうしようもないだろう。いかにも後生大事に守ってきたかの「方程式」の「X」に、何を代入すべきなのかに言及することを注意深く避け続け、それでも思わせぶりは止めず、それを具体的に語らない筆者の言葉など、単なるなぞなぞの類であるし、自分の人生に何の関わりもない、取るに足らない他人の虚言だとしか思えないとしても、それはまったく不当ではないのだ。

私が何度も「或る題材」と呼んでいるもの、それが方程式の「X」である。だが、その「X」を正面 切って取り上げる日は近い。もう私にとっても限界なのだ、それを隠し続けることは。そもそも、それを後生大事に持っていられるほど人生は長くない。そう私は感じる。ないものをあることのように見せかけるのではなく、あるものをないことのように見せかけることは至難なのである。



表現作品というものは、ひとたび創作者の手から離れれば、それが「どのように受け取られてもよい、あるいは仕方がない」という一般 認識がある。言い換えれば、作品の解釈はそれを受け取る人の数だけある、という考え方だ。

自分の浅い経験から言っても、これはかなり広く受け入れられていることだろうと思われる。作品と鑑賞者の関係については、私の立場は「どのようにも受け入れられても仕方がないということが、現実としてある」という意味では、十分に認めることが出来る。だが、そうした現状認識とは別 に、「それで良いのだ」と割り切って済ませて良いのか、という疑問が常に戻ってくる。

鑑賞者の鑑賞態度、受け取ろうとする人間の「取り組み」について言えば、「すべての作品に関して」とまでは言うまいが、少なくとも「ある特定の表現作品」に関しては、求められていいことだという想いがある。つまり、これは鑑賞者の鑑賞態度(取り組み)に関する「思想」なのであり、また「理想」なのであって、場合によっては単なる「虚妄」と呼ばれてしかたがない、切なる願いなのである。現実がどうであるというような現実認識についての確認という段階の話をしている訳ではないのである。

たしかに、ある特定の作品(創作物)に関して、作品を受け取る人間の数だけ異なる<経験>があるというのは、ほぼ無条件に認めることができる。音楽の様な抽象性の高い作品について言えば、それが前提であろう。だが、ある特定の作品に関しては、「解釈(理解)も同様に受け取る人間の数だけあってよいのだ」という考え方には容易に与することは出来ない。それが如何に動かし難い現実であったとしても、それでよいのだとは思えない、ということがある。

それは芸術全般に対峙する時の一般論ではなく、言わば、特定の作品に関して鑑賞者に求めるべき(求められてよい)「思想」に関わるものなのである。あるいは、ある種の芸術家が、ものを創るときにおそらく期待してかまわない作り手側の情熱と自己投機に関して語っているのである。「思想」であると認める以上、それは理想や夢に関わりのあることであって、現実を受け入れるということとは別 の次元で存在している問題だと言うことを、ここで認めているのである。

「鑑賞者によってどのように受け入れられてもよい」と本気で考えて(あるいは積極的に望んで)制作する創作家にとっては、鑑賞者がどのような解釈や経験を得てもよいのであって、そこには特に<課題>と呼ばれるものがない。確かにどのような「作品」にも鑑賞者の数だけの「解釈」と「意味の発見」と、そして「経験」がある。だが、ある特定の表現作品については、同じ態度で接しても十分ではないと思えるのである。これは筆者の実感について語っているのである。

つまり、創作者の<表現題材>の重要性に気付くということ、そしてそれに肉薄しようという態度で鑑賞に取り組まなければ、それの描く世界(題材)への入り口にも立つことの出来ないという種類の「作品」というものがこの世にはあるのだ、ということである。そしてそれは<絶対芸術>という名に相応しいものである。解釈が様々にあってよいもの、それが<相対芸術>なのである。

不遜にも自分が音楽を通じて、表現題材の重要性に気付かれるべきものを創って来た、などということを言うつもりはない。私がやって来たこと、これまでに人前で発表してきたことは、「即興を通 じて行われる音楽行為」であって、そこに特定の意味や題材を感じ取ってもらおうなどと考えて行っているわけではない。それこそ、聴いて下さる方の数だけ、異なる体験や「解釈」があって良いのである。

ただ、自分が「詩のようなもの」を書くとき、あるいはある種の散文を書くとき、それを自分がどのように受け取ってもらえても良いと思って書いているのではなく、ある明確な題材についての自分の理解を共有してもらいたい一心で書き綴っているのだと言うことができる。これは、ある種の表現作品を通 して、何か具体的なことを伝えたいと思う創作者であれば、ほぼ当然のこととして信じているはずのことである。

あれもこれも、「芸術」と呼ばれるものは皆同じ、などと大雑把に表現カテゴリーを理解している訳ではないのだ。

音楽の中にも、正面切ってある種の「題材」を扱うものがある。一番分かりやすい例ではオペラなどがその類であろう。一方、映像作品の中にも特定の「題材」を取り上げずに、即興的にある種の作品を作りあげる創作家もいれば、エンターテイメントを追求する創作家もいるだろう。この際、そのどちらかが一方に比べて価値が高いなどということはあえて言うまい。そうした一切について、同じ態度で臨んで良いとも同列に語って好しとも考えない。それだけのことである。異なる種類のものを異なるものとして区別 する、ということは重要なことである。

これまた晦渋なる前書きである。それは認めよう。



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