音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

聴取のエキスパート[前半]
January 20-21 , 2001

スルメイカと綿菓子、あるいは熱いお茶とビールは、そのどちらもが飲食されると言う意味で広義の食品に属するものである。が、その味わい方は極めて異なったものである。スルメイカは綿菓子を食べるようには食べることが出来ない。また、綿菓子はスルメイカを食べるように食べることが出来ない。スルメは良く噛まずには呑み込むことすらできないので、結局良く噛みしめるわけであるが、そうこうしているうちにスルメ本来の味がしみ出してくる。噛めば噛むほど味が出てくるのが分かるので、そのような食品は時間をかけて味わうのが良い。一方、綿菓子は口の中ですぐに溶けるので噛みしめること自体が出来ない。しかし、スルメイカと比べて食品としての価値が少ないかというとそういうことでもない。綿菓子にはすっと口の温度で溶けてしまう際に感じられる砂糖の独特の香ばしさがあり、そこには一種刹那的にうまさがある。また綿菓子には綿菓子を食するにふさわしい状況というものもあるわけで、カノジョと祭りにでも繰り出したときにでも買って、二人で分け合ったり奪い合ったりむしり合ったりして仲良く食べると良い。そんなわけでスルメイカの方が栄養価が高いからといって綿菓子がなくなってしまうのは寂しいものである。

何が言いたいかというと、嗜好品にしても文化財にしても商品にしてもすべてのものにはそれにふさわしい対峙の仕方がある、ということである。熱いお茶と冷たいビールは飲み方が違うし、チョコレートとおはぎでは、合うお茶の種類も違うだろう。熱いお茶をビールを飲むように一気に飲み干すのは、おいしいとか言う以前に大変危険である。ビールをイギリス人がバーで呑むようにちびちび飲むのも場合によっては良いかもしれないが、日本の生ビールはぎんぎんに冷やして一気に飲むのが旨い(眉間が痛くなるけど)と思う。そうしたふさわしいところにふさわしいものを選ぶことが出来ることが「文化人」であり、「賢い消費者」であり、その道のエキスパートなのである。それが出来ずに、すべての対象に知的分析が唯一有効であると信じるならば、それこそ「味噌とクソを区別しない(失礼!)」態度と言うべきであろう。

さて、音楽の聴取の世界にもそういう意味でならエキスパートとそうでない人がいる。私に言わせれば、ふさわしい場面でふさわしい聴き方の出来る人こそが、聴取のエキスパートである。私は、原則として、音楽を知的活動と言うよりは、苦しみも伴うが楽しみである「具体的身体行為」であると考えるよう努めている(それは以前も今も基本的には変らず、どうしてそうするのかという根拠を示すこともできる)ので、基本的に聴取という観点から言っても、出会った音楽にふさわしいやり方で、しかもその味を最大限引き出す形で聴こうとするであろう。私は、後でもくり返すように、音楽を聴く態度に関してはアマチュアなのである。

当然、同じベートーヴェンの作品でもウォルター・マーフィとビッグアップルバンドの録音した「運命 '76」とフランス・ブリュッヘンの Symphony No. 5では聴き方が違う。MessiaenのTurangalila SymphonyとBrahmsのSymphony No. 3とでは音の追っかけ方が違う。Messiaenを一通り音楽として楽しんで聴いた後は、ひょっとするとその拍子や小節数を数え始めるかもしれない[そして、最後はスコアを繰る、という音楽に対して「最悪の挙」に出る(笑)]。しかし、Brahmsに対してそのような聴き方をしてMessiaenの音楽にあるような何か構造的神秘の発見をするとは思えない(もちろん「絶対に何もない」とは言わないが)。モーツァルトの音楽の神秘的側面を研究してあれこれ「新発見」している人も世界中にいるようで、それはそれでやっている本人にとっては楽しい作業であろうし、私も興味がある。というわけで、そうした音楽の「知的側面」を無価値だとはこれっぽっちも思わない。ただ、それはモーツァルトの作品が音楽として純粋に価値があることを「実感」した上で行えばの話である。

本間正史の「フレンチ・オーボエの芸術」とJohnny Hodgesの一連のテナーソロは、一見畑が違うが同じ様な聴き方でこそその良さが解ろうというものだ。美空ひばりの唄とセルジオ・メンデスのNew Brasil '77もその歌の世界に囚われてみて始めて分かるたぐいであろう。そしてその世界を知っているとすれば、その音楽の聴き方を知っている聴取のエキスパートであるわけである。ただ、こうした音楽を提供する方は、あらゆる知的側面を通過してそれら作品の創作に関わっただろうが、一聴取者としては、そんなことはどうでもいい話である。まあ、それがプロとアマの違いだと言われればそれまでだが。

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