音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

聴取のエキスパート[後半]
January 20-21, 2001

しかし、ひとたび自分が創作する立場に身を置くとなれば、「音楽構造を完璧に聴」かなければならないような場面では、私でさえそれをしようとするであろう(本当に出来ているかどうかはともかくとして)。録音セッションをした後で曲の配列を考えるとか、リサイタルをするときにプログラムを決めるときなど、音楽構造を無視しては出来ない。だいたい作曲するという行為は3分45秒のポップスならいざ知らず、構造は「聴かずとも」把握できていなければならないほどで、特に何かを長大なもの創ろうとする場合は、そうした「音楽構造を完璧に聴く」というのは、極めて重要な聴き方のひとつであると言えるわけだ。その点、全く異論はない。

即興や高度なアンサンブルを要求する作品を扱う場合は特にそうだが、演奏者の側に立ったとき、自分が音を出しているときに「全体構造の把握」が完璧に出来れば、言うことはないかもしれない。しかし、特に即興をやっているときに音楽の構造を完璧に聴くなどと言うことは滅多に出来た試しがない(それが弱点でもあろうし、長所ともなろう)。一体そういうこと自体が可能なのだろうか? 謡うことを始めた人間が同時に全体像を把握すると言うことが、脳の生理学的見地からも可能なのか? たとえば、性行為において相手を歓ばせようと工夫すると同時に自分が快感に浸ることを同時に出来るのか? 即興に関しては、だいたい演奏をしながら構造は成長を続けているわけで、しかも集団ともなれば、自分以外の人間の思いつきという別のパラメータも出てくる。また同時に良い音を出そうという「極めて自分本位にならないと出来ない作業」にも打ち込まなければならないわけで、残念ながら音楽の全体構造を把握できなくなることが頻繁に起こるのである。おまけに、夢中で自分の作業に打ち込むと言うことをしている人が全体の構造を予め知っていたとしか思えないような構造を感じさせる即興をするということもあるから、これはまた不思議なことであり、「なにがどうだからこうだ」と説明も断定もできないのである。私はこと即興に関しては「全体構造の把握」それ自体が善いとも悪いとも思わない。すべてはバランス(折衷)の問題だからである。私にとっての優れた音楽の条件とは「終始自分本位」でも成り立たないし、「終始他人本位」でもいけないわけである。まあ、本拙論は即興論に限った話ではないので、これについてはこれくらいにしておこう。

さて、私は最大限に大雑把に言えば、自分が「良き聴取者」であるだろうし、それを誇りにしても良いと思っている。優れた演奏者たるものはすべからく優れた聴取者からスタートしているはずなのである。洋の東西を問わず、全く音楽を聴いてこなかった者が、突然古典音楽の演奏家になるなどということは想像もできない。また、私が普段から批判の対象としている人をそう評価する一方で、ちょっとイヤな言葉だが、私自身「教養消費者」的な側面ももっているに違いないことも自覚している。だいたい、現代の社会の中で音楽ファンと言えるような人は、演奏家であってもなくても大なり小なりコレクターまがいの行為に走りがちであり、そのような立場では、大概の人が音楽を「愛好」しているに過ぎず、大部分の消費者と同じく、音楽構造の解明にその時間を費やしているわけではないのである。

職業的なオーケストラ奏者が自分の関心のあるソロ演奏の入ったオーケストラ曲のレコードを持っていて、そのソロの部分だけを何度も分析的に聞くなどと言うこともあるだろうが、それはまったくもって「仕事」なんであって、必要なことでもあろう。演奏が終わって自分のオケの録音を聴くとき、自分のソロを追いかけて聴くなんてこともその場においては必要なことである。ただ、そのような聴き方しかできなくなったとすれば、それは職業病なのであり、聴取者としては不幸な状態であることに変わりはない。ただ、その作業を満足を得ながら出来る職業演奏家をわれわれがどうのこうの言える立場でないことも確かだ。

また、どうして音楽愛好家の多くが、音楽構造の解明にその時間の大部分を費やさないかというと、それが分かったと思えたときが消費行為としての音楽聴取の「終わり」を意味していることを知っているからである。それは近藤氏が即興音場に関する「良い音楽」観の別側面の中でいみじくも認めているように、「飽きる」という状態を指す。構造が分かったときに、それを退屈と感じるのは、音楽を構造としてのみ捉えているからである。構造として捉えることが出来るのは重要なことだ。しかしそのような捉え方しかできないとすれば、音楽の極めて重要な別の側面をすっかり置いてきぼりにすることでしかない。構造の上に何が乗っかっているのか、たとえば、どのような演奏家がどのように演奏しているのか、どのように謡っているのか、ということが聴けない聴取者なのである。これは果たして聴取者としてエキスパートと言えるのか?

それに、音楽の構造を分かってしまうより、構造に関わりのないところを何度も味わえる能力を持った人物が、実はこうした「消費行為としての音楽聴取」からもかけ離れたところにいるのである。美に一旦囚われた人は、構造にやがて退屈するよりは、同じ場所で何度でも感動に身をよじらせることが出来る。建築でも絵画でもそれは同じであろう。構造が判明したからと言ってその作品の価値や美は変わらないのであって、それを飽きると感じるのは、「捉える側の問題」とも言いうるのである。ひとつの曲を何度でも反芻して聴くことの出来る幼い子供がいる。親の気が狂ってしまうほど一日に何度でも同じ童謡をかける。この子供が至っているこの事態こそ、音楽の本質に触れている状態なのだ。音楽の本質とはそもそもそこにこそあったのではないのか? 八代亜紀をずっと聴いていられるトラック運転手は、一見商業音楽の消費者でしかないようだが、その実その歌をどう聴くべきか知っており、その素晴らしさを理解している点で、はるかに音楽と健やかな接し方をしているのである。スルメをスルメとして咀嚼しているわけである。が、一方飽きてすぐ他のCDを漁りに行く「知的な聴取エキスパート」こそ、現代の音楽産業の構造にうまくはまっているとも言えるのであり、まさに音楽を消費することを止められなくなった人々なのだとも言える。そして、それは(認めるのは辛いが)われわれ自身だったりするのだ。

「情緒的な聴き手」というのは面白い言い方だが、彼らにとって音楽が感情のはけ口であったり、カタルシスであったりすれば、それはやはり音楽の重要な一側面を知っている人でもあると思う。自分に置き換えて考えると、確かにそのような聴き方を滅多にしていないように思うが、しかし以前にも言ったが、音楽を聴く行為がカタルシスである場合を少なからず経験している以上、自分はそれを否定することが出来ない。日本のポップスの「音楽の内容」というよりは歌詞に特に関心を払って聞いていると思われる人々の大半は、まさにそのような聴き方をしているのかもしれないし、彼らがそうした音楽を通して経験していることが「非現実」でもないのである。

さらに、「遺恨を持つ聴き手」というのが、近藤氏が説明するように「音楽を、既存の音楽や社会的な条件に対する反抗の一形式として使おうとする人」であるとするなら、私はそのような人というのは、単に「音楽を特に愛好」していない一般人よりも、むしろ音楽に深く関わっている(あるいは特に自覚的に現代音楽に関わっている)人にこそ、いるのではないか、と実は邪推しているのである。これらの人こそ「音楽に敵対する人」であり、音楽を創作している、あるいは音楽を専門に扱っているといううわべとは裏腹に、実は、一方で音楽の中にある伝統的要素や価値の転覆を画策しているのではないかとさえ思うのである。そして今世紀に入って起こったあらゆる創作分野における「芸術革命」とやら以降の現象だと考えているのであるが、それに荷担する人に共通することとは、「伝統的価値などと言うものはすべて意味がない」「現代人の知性によって発想された構造や発明にこそ価値がある」を信じる点である。誤解を恐れるので、また近藤氏の名誉のために言っておけばこれは氏がそうだと言っているのではない。

私は“作曲家”アドルノの聴衆分類がそもそもどのような意図を以てなされたのかを知らない。その意味でアドルノ自身を批判する資格を持たない。しかし、それを利用して近藤氏が主張していることに関して幾つか疑問を提出したい。

<もし即興演奏家のパーティーがそこにあったとする。少なくともそこに来たプレイヤーは色々な制約を受けながらも即興という具体的な演奏行為を楽しみに来ているはずだ。ましてやそれがフォーマルな演奏を与えられていないパーティーだとしたら、私は彼らが自らフォームを作ることを楽しみに来るものだと考えていたし、何よりもそれが最も楽しいものだろう。>

これに対しては、私なら次のような言い方をする。即興という具体的な演奏行為を楽しみに来ている、というのが前提だとしたら、そしてそれにフォーマルな演奏(形態)を与えられていないパーティだという前提があったとしたら、彼らの何人かはフォームのある即興を楽しむだろうし、それ以外の何人かはフォームを意に介さない即興を繰り広げるだろう。したがって、「フォーマルな演奏形態を与えられていないパーティ」の参加者による集団即興は、混沌たるものになるだろう。旨く行く瞬間もあるだろうがそうでないことの方が多いであろう。「フォームを作る」ことが楽しみなのではなく、「フォームを感じさせる」即興をしたり聴いたりというのが私にとって最も楽しいものだろう。

これを為すには、アドルノの類型化で云うところの1に当たる人同士であるという絶対条件が必要>

国語のテストではないが、「これ」というのが何を指しているのか百パーセントの確信を持てないが、もし「刺激的即興」のことだとすれば、わたしはアドルノの言う「聴取のエキスパート」すなわち「音楽構造を完璧に聴くことが出来、形式上のニュアンスを正しく秩序づけることのできる人」同士が絶対条件だとは全く思わない。むしろ積極的には(私の言っている意味の聴取のエキスパートでなく)アドルノの言う「聴取のエキスパート」が、面白い即興をするとは期待できないのである。

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『即興音場に関する「良い音楽」観の別側面』と『聴取のエキスパート』を読む


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