音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

アンサンブルって何?
December 19-20, 2000
 
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特に初対面に近い人が話す言葉ほどそれは顕著になりますが、私には判らない言葉が多くあります。これは決して人の揚げ足取りをしようと意図しているのではなく、相手の言っていることを本当に理解しようと思うからこそ、あちこちの言葉に立ち止まらざるを得なくなってしまうだけの話なのです。

最近、即興がらみのコンテクストで「アンサンブル」という言葉を折に触れて聞きます。ふと思ったのですが、皆さんどういう意味で使っているのでしょう? 誰かが「私はアンサンブルを重視する」とか「アンサンブルをしたい」と言ったとき、どういう意味で使っているのか正直言うとちょっと分からなくなります。とくに即興の世界に於ける“アンサンブル”とは一体何か? 何も私は知らぬ振りをしているのでなくて、本当によく分からないのです。いずれにしても、互いに意味を伝え合うのが対話の目的であるのでしたら、自分はこういう意味で使っている、というのを提示するのは必要かも知れませんね。

このようなことを音楽に深く関わっている皆さんに言うのは、釈迦に説法かも知れません。ただ、こうした元々の語源に遡ってアンサンブルという言葉が元来どういう風に使われていたか、あるいは自分の属する以外の世界でどのようにその言葉が使われているのかを考えた上で、じゃあ、即興の世界で生じるある種の「必要」や「状況」に対して、もちろん決定的な決め手になるとも思いませんが、それをアンサンブルと呼んで語られるべき事かどうか検討できるようになるとも信じるのです。

“古典”音楽の世界では、広い意味でも狭い意味でもよく使われる言葉ですが、最も広義の意味を含む定義からいうと、みんな揃って音楽を作れば、それはアンサンブルと言うことになるかと思います。つまり、「合奏曲」という漠然としたくくりの音楽全体を指して、「ensemble pieces」と呼ぶ場合がそうです。ただし、これだと今問題にしている「じゃあ、合奏するときのどーゆー場面のことを具体的に指しているのか」ということを知る助けになりません。また、同じく“古典”音楽の世界でより踏み込んだ意味で「ensemble」言うと、「合奏」する場面で、お互いにお互いの音を聞くことによって、「総体としての作品の質」をより高める努力全般を指すように思います。もっと分かりやすく即物的に描写すると、その中には、まず「縦の線(リズム)を併せる」というのと、「ピッチ(音程)を併せる」という不断の努力があります。つまり、ユニゾンなり、ハーモニーなりをともなう楽曲を合奏することが前提となっている言葉と言えるかも知れません。一緒に合奏の練習をしていてよくトレーナーの先生や指揮者が、「ほら、よくアンサンブルして!」というやつです。その場合、「心をひとつにして」と言っているようにも聞こえます。

ただ、このアンサンブルと言うことも「じゃあ音程とリズムを合わせればアンサンブルなのか? そいつぁ随分簡単そうじゃないか」と思われそうですし、「おれは音程やリズムと関係のないところで音楽してるぜ」とか言う人も出てきそうですが、やはり誰でも音楽のより深くこの世界に関わってくると、より高度なアンサンブルが問題になってくるでしょう。つまり、自分が全体の中でどういう役割を果たしているかを理解した上で、その場にふさわしいダイナミクス(音量)を採ることも高度なアンサンブルに不可欠なことだとなります。つまり、縦の線もピッチも合っていても、ソロ奏者より大きな音で演奏していいのか、どこまで音量を落とせばちょうどいいのか、といったことを考えることも立派なアンサンブル要素だと言うことになります。

要するにたとえば、歌っているソロ奏者に対してどう併せるか、ピッタリ縦の線や横の線が合って寄り添っていればソロ伴奏者としてのアンサンブル技能が高いと言えるのか? どうもそうとばかりは言えなさそうです。なぜなら場合によってはちょっと早めに出てきたり遅めに出てきた方が聴く側として「合って聞こえる」とか「音楽的に聞こえる」とか「面白い」というようなことも出てくるでしょうし、演奏するもの同士でも煽って欲しい、とか一呼吸置いてくれた方がソロを取りやすいとかいろいろあるからで、ピッタリ「あっている」ことが必ずしも切望されているとは言い切れなくなってくるからです。

一方、フルバンドのジャズオーケストラなどでは、“古典”音楽で言うところの先ほどの狭い意味での「アンサンブル」を重視してしまうと、まとまりすぎて音楽として面白くなくなる、なんてことを聞いたことがあります。つまりトゥッティで合奏するような場面でも、それぞれが別々の方向に思い思いに吹いた方が、ジャズオーケストラとして広がりがあり華やかで豊かな音になる、などという「反アンサンブル」的な手法*で得られる音楽的効果です。つまり、狭い意味で現代の“古典”音楽奏者が初めて「アンサンブル」と呼ぶことのできるような「微に入り細に入る」といった互いが互いを聞いて併せる、と言うやり方が必ずしも「期待された」効果を産み出さないかもしれない、というケースが出てくるわけです。そしてもっと言うと、これは「ジャズ」においてのみ言える特権的な手法ではなくて、そのようなことはいわゆる“古典”音楽(と言っていいのやら)のなかでも、古楽器を中心にバロックを演奏するなどの場合に、通常のロマン派を扱うモダンなオーケストラが究めているような手法よりは、ジャズオーケストラが当たり前にやっているような方法でこそ「華を咲かす」ことができる、ということもあるように思います。

* 後に述べる私の個人的な定義によれば、この「反アンサンブル」的手法も立派なアンサンブル手法のひとつであると考えることができるわけです。

つまり、単純化をまぬがれませんが、「併せない“アンサンブル”がある」という立場と、「合っていて(併せて)こそアンサンブルである」と考える2つの全く異なる「定義」がありうる以上、話し合いの前提として、いずれにしてもどのようなレベルに於ける“アンサンブル”を指してアンサンブルというのか、という課題がどうしても発生してきてしまうわけです。

何をしようとするのかはともかくとして、またどんな種類であるかに拘わらず、「とにかく合奏している状態」が、ニュートラルな意味でアンサンブルである、とするならば、その広義の意味のアンサンブルに関しては、私にとってはアンサンブルと呼ばれるにふさわしくないものも含めてすべて入ってきてしまうように思えるのです。集団でやる即興においては、同時に音を発している状態が非常に多いわけで、そうした状態をすべて「合奏」である、と「日本語に於ける字義通りの意味」を英語やフランス語の「ensemble」に当てはめてと呼ぶのであれば、私にはちょっとその定義が余りに漠然と広いものを指し、ひいてはコミュニケーション上の何らかの誤解が生じるような気がするのです。そう。これは音楽をするに当たってと言うよりは、音楽について会話するときに発生するかも知れない弊害について言っているのです。

私にとっては、あくまでもアンサンブルと呼ぶにふさわしいものは、ある種、期待した効果を得ることができて初めて呼ぶことのできるものであり、多様な“古典”音楽の中には、それらごとにふさわしいアンサンブル手法が、古楽器合奏にはそれにふさわしいアンサンブル手法が、そしてジャズオーケストラにはまたそれにふさわしいアンサンブル手法があるように思うのです。(これは単に伝統的様式に従いなさいということを言っているのではなく、それを考慮した方が音楽をやってて面白いでしょ、と言うことに過ぎません。)

で、即興にふさわしいアンサンブル手法なるものが存在するのかと言えば、もちろん簡単には定義ができないでしょうが、そこには合奏しているか分奏しているか、といった違いだけで片付けられない課題があるように思います。なぜなら、互いに相手の音を聴き、また場合によっては相手の音を敢えて聴かずに、しかも、ことによっては自分が音を出さないことによっても高められる「総体として音楽の質」というものがある以上、結果としてそうした質の高い音楽が複数の人間の協力によって、またそうしたことが「意図」されたものとして得られるのであれば、私にはそうした(音を出さないことを含めた)すべてが「アンサンブルをした」状態であると思えるからです。つまり、このような可能なひとつの言葉の約束事にのっとれば、集団による良い音楽というものがあるとき、すべてそこには良いアンサンブルの存在もあるのだ、という風にも言い換えられるわけです。

つまり、アッタリマエですが、アンサンブルの前提として演奏している他の人の音を聴くことがあり、殊に即興においては音を発する発しないに拘わらず、肯定できる*総体としての音楽効果を狙って演奏に参加することがアンサンブルと言うにふさわしいことなのではないか、と考えます。そして、即興しているあいだ中、互いに耳栓をしているとしか思えないような相互無視を終始一貫して行うようなひとがたまにおりますが、そういうひとの作品こそ、非アンサンブル的なもの(反アンサンブルではなく)だと呼ぶべきでしょう。

* もちろん「音楽として肯定できる領域」というものが演奏者や聴者によって異なる以上、それにしたがってアンサンブル的なるモノのperception rangeというものも可変であることは容易に想像できます。


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