音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

「最後の知性のため」は「自分のため」
October 23, 2000

KONDO Hideaki氏の『Avant-Garde Musicの部屋』にある掲示板で展開しつつある議論に関連して
(最初そのままポストしようとして、文字数が掲示板のキャパを越えている、との注意が出たために自分のサイトで展開することに。周りの栄養や水を飽くことなく自分のテリトリーに引き込まんとする、「我田引水」ならぬ「我庭引水」な試み。)


結論から言うと、「最後の知性のため」だろうと、「自分のため」だろうと、所詮は同じ事。また、私は即興のほうがいいとか、作曲されたもののほうがいいとか、はたまた「現代音楽」のほうがいいとか、「古典音楽」(そういうものがあったとして)のほうがいいとか申しません(誰も言っていませんかね?)。どれもやりたいときにやり、鑑賞したいときにそうします。そして、何のためにやるのか、と言う問いかけは、即興に限った問題ではなく、すべての表現形態に関して問いうることだと思います。

そもそも、「自分のために音楽をやる」と言う人のつくる、たとえば即興音楽が、何かそれより「遠大な目的」のために音楽をやると主張する人によってつくられた、たとえば「現代音楽」との比較において劣っているとか言うと、まったくそうとは言い切れない。もちろんそう言うこともあるかもしれないが、そうでないこともあるだろう、としか申し上げようがありません。

だいたい、いわゆる歴史に残る「立派な仕事」をした人が、純粋に他人のためだけに仕事をしたなどと言うことはにわかに信じがたい。いきなり跳びますが、もし、聖書で語られている通りの「イエス」という人物が2000年前実在したとして、私は彼が他人(人類)の救済のために自ら磔になったと考えるより、人間イエスは、自分の救済あるいは「成就」のためにそれを選んだんだし、そのためにこそ彼は偉大だったと信じたい。換言すれば、自分自身を満足させようとせずに仕事をして立派な仕事をした人がいるとは到底思えないのです。むしろ、彼らは自分のためにこそ仕事をしたのであって、そのためにこそ、そのようなことを達成したのだと考えるべきなのです。「人のため」に仕事をする人は、何かが旨く行かなかったとき、その原因を外に求めるような種類の人だったりするわけです。「せっかくあなたのために○○して上げたのにい(ちっとも分かってくれないんだからあ)。」「バカ言ってんじゃないよ、自分で好きでやったことだろ。自分でやったことはおとななんだから自分で責任とれよな」。

高橋悠二氏が「人類が滅亡した後に残る、最後の知性のために」と答えていた(いつ、どのようなコンテクストで、そのようなことを言ったか、ということは無視できません。2000年の今日、同じ質問をされて彼は同じ言い方をするんだろうか?)ということですが、私は彼がそう述べたこと自体で、彼を評価することはできません。ありきたりな表現を使えば、「言葉でなら何とでも言えます」。私はむしろ、自分のためにしかやっていない、と言いつつ(あるいは何も言わずに黙々と)立派な仕事、すなわち結果として「人類が滅亡した後に残る、最後の知性」が喜ぶような仕事する人がいる様に思います。行為の目標ないし目的を言葉でならどのようにも説明することできるのです。ある人を評価する際、何をつくっているか、何をしているか、の方が重要なんだ、という点は譲ることができません。あるいはもっというと、行為のもたらす結果を知らずに「立派な仕事」を成し遂げるなどということは歴史上いくらでもあっただろうし、芸術家個人が独善的に意図したものより、無意識に集団が成し遂げることの方が歴史的には常に多くの変化を可能にしてきたということもあるわけです。そういう集団的無意識の大河の中に「芸術家」と呼ばれ、ひろく認識されるひとが水面上に浮上してくるだけの話。

自分で人の作品を評価できない人は、その人が何を(どんな立派なことを)喋ったかですぐ評価したりけなしたりする。断じて高橋悠二氏がなにを言ったのかということだけで評価されるべきではなく、彼が勝負している分野*でこそ評価されるのが正当でしょう。私は高橋悠二氏の仰ったという「人類が滅亡した後に残る、最後の知性のために」何かをする、という考え方自体を否定しません。それどころか、実のところそれはすべての人類が持っているサブカンシャスな閾での人類の生きる目的だとさえ思っています。それを言葉に出して言うかどうか、あるいはそれを識っているかどうかの違いではあっても、特にものをつくったり表現したりする人に共通して言えることは、「無意識」における関心事は、人々の記憶に刻みつけることであり、歴史に何か痕跡を残すことであり、偉大たろうとすることである。それはまさに「人類が滅亡した後に残る、最後の知性のため」と言えるかもしれません。ただ、それにどのようにいたるか、という方法論が色々あるだけのことでしょう。その中には知力を総動員するとか、はたまた意識を捨てるとか知性を捨てるとか、いろいろあるんでしょうが。

(*著述や批評自体が「作品」であることを否定するものでなく、著述という分野に於ける評価はまったく別のものとして可能である。ただし、その場合、その著述する内容が彼の著述以外の分野で行っていることの正当性の説明でない場合に限る。)

さて逆に言うと、高橋悠二氏が「人類が滅亡した後に残る、最後の知性のため」と言いつつ、自分のために仕事をやっていないとも勿論言い切れず、自分のために音楽をする」と主張する数多くの「凡庸な表現者」が「人類が滅亡した後に残る、最後の知性のため」の仕事をしていないとも言いきれないのであって、何をどう理解し納得しているか、ということと、その人の行為の最終結果は何のつながりもないのです。

これまで私は「伝統的手法」でもってこそ伝統世界の価値感(あるいは伝統そのもの)の伝達は可能なのだと信じておりましたが、今では「ロマン主義」あるいは現今顕著になっている「個人主義」「個人的表現」の出現こそ、伝統世界の予言していた事態の成就に欠かせないものと考えています。とどのつまりが、両者(反近代主義 vs. 近代主義)がそれぞれ主張していた存在の理由や価値が、目指したり、あるいは妨げようとしていた互いに対立する存在によってのみ規定し得、しかも興味深いことに、互いが得ようとしていた効果のまさに反対の結末を最終的に誘因する、というパラドックスが厳然としてあるのです。かくが如く、さいごに俄然抽象的になってしまって恐縮です。が、恐らくこれには続きがある、と思います。


つい、インスパイアされて(というかプロヴォークされて)書きましたが、これに類する話題でいくらでも書けそうなので、 喜んでいます。最初はEXIAS-Jでベースを弾いているIke-Game氏への援護射撃のために書き始めたはずが、面白い話題のために書かされることになったことに対して、心からS/Tさんに感謝! なにしろ最近自分のサイトの更新が遅々とし始めていましたから。


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