音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

はみだしてくるもの
March 5, 1999

「そいつは、渡ろうとした人にのみに差し出される筏(いかだ)じゃ。運良く乗れれば、川の向こうまで橋渡し。乗ること自体が忘れられない船渡りだがね。だれかが差し出すんじゃが、見つけるのはお前じゃよ。乗ったら落ちなくするのもお前なんじゃ。」

イパナトゥ『跳ぶ長老』


これは一向に科学的な話ではないので、証明して、はいそれでは明日からこれでいきましょう、ということにはならない。そんな話だから、証明されたものにしか従わない、といった類の人には何の足しにもならない話である。そんなものがあるかどうかさえ信じられない種類のもの、についてである。

ある日、Uは言った。「本当に音楽がいいと感じているときは、その音を聞いているわけじゃないんだ」と。

そこで、簡単に言ってしまえば、そこで我々が聞いているものとは何か、と改めて考えてみると、それは音の周辺の何かである。それはいわば、音などという範囲を超えてやってくる何かである。そうなのだ。我々が本当にそれを感じていると思えるような事態が生じたとき、それを我々はいわゆる五感で捉えていない。我々はそれを「何か別のもの」でとらえるのである。

「周辺」と言う言葉が悪ければ、それはある範囲を超えて「沁みでてくる」、もしくは「はみでてくる」。あるいは「ほとばしりでてくる」、はたまたこういう言い方はどうかとも思うが、それは五感で捕らえられない何かとして「でてくる」のである。それを言い表すとなると、音を描写するのに通常使われない類の単語、いってみれば、多くの比喩を含む表現が避けられなくなるだろう。(炎のようなとか水のような、とか言う意味で。)

五感で捉えられる範囲が、科学の扱う範囲であるとするならば、この手の話はもはや全く「科学的でない」ものに範疇分けされてしまわざるを得ない。百歩譲ってそれが「科学的な何か」だとしても、われわれはそれを利用してこの事態を客観的に説明することは永久にできないだろう。私は、そのためにそれを「科学でない」とか「いや、それも一種の科学なんだ」とか言ってどちらかの側に与する意志もない。私は科学の持った「魔力」を利用する気もなければ、非科学的な「魔術」の力を借りて説明する気も、いずれもない。

私が言っていることは、証明はできぬが、それでも「確か」な、非常に切実な「音に関連したわれわれの認識」のことである。

形を超えて出て来ると言うことは、逆説的に響くが、まずもって「こちら側にあるすべてが形であり、数として量に還元できるものである」ということを認識することが、実は差し当たって先決である。すべての、連続的な感覚(アナログ的)事象、あるいは、一般的に「質」と言い換えることのできることがらの全ては、じつは「量」に還元できる、という冷酷な事実を、である。これを認めることは神秘主義者にとっては辛いかも知れない。しかし、「よし」と一旦受け入れてしまえば、これほど楽なことはない。「あんたが感動しているその“音楽”とやらは、感動できる成分を数量的にとりだすことができるんだぜ」。これは冷酷な宣言である。しかしなんの思い込みもなくして、この事実に対峙すれば、これは何らの問題もない第一に獲得すべき認識であることがわかる。

我々が、あるモノがもうこれ以上に分割することができない物質の最小単位であるとされた原子でさえも、どうやらすべて全く同じ質の「何か」が集まってできており、その原子(元素)の性質、とやらは、結局中性子だか陽子だか電子だかの「数」によって決まっている、と言うことはすでに分かってきて久しい。しかしこれのどこが冷酷なのか。

このように階段式(デジタル的)に「数」がひとつ変わると、うってかわって我々が認識するに全く異なった「性質」を発揮してくるというのが元素の世界のようである。この段階性が通常の五感で捕らえきれないレベルの微少さである一方で、その個々の元素があまりに異質でかつ多彩なものとしてわれわれの五感では捉えられ、しかもそれが階段的ではなく、シームレス(無段階)な表現困難な曖昧さを全体として示している、そのためにわれわれはデジタルな世界の有り様を受け容れられないだけなのである。

顕微鏡的(microscopic)なレベルでは、一つひとつが明確で、全くあいまいさをもたない確固とした不同の性質をもった、無数の微少なものから成り立っており、少なくとも便宜的には、それ以上分割不可能な絶対的性質を帯びた最小単位からなっていると、我々に「思わせているなにか」からすべてが成り立っているわけである。が、なおかつ、そうした分割不可と思わせる絶対的な最小単位そのものが、実は全く同じ「何か」の集まり方や「数」でその性質が「醸し出されている」ことが分かってきているわけである。つまりそれらがまた素粒子とか言うさらに微細な何かから成り立っているとかなんとか...

音楽にひきもどすと、
「音程や音の強さは全て、周波数(pitch)や、音の強さ(velocity)、音の長さ(duration)というふうに数値に還元できる」
となるわけだ。

こうなりゃ、古典的「音楽の三要素」など、クソくらえである。音楽が旋律、リズム、ハーモニー(あるいは、ピッチ、ヴェロシティ、デュレーション)でできている、なんてことは分かっている。そりゃあそうだろう、でもそれがどうした、と。このように一旦それを認識し、実用面での音楽にまつわる困難を引き受けた上で、それらを乗り越えなければならない。

捉えきれない、ということは非存在を意味しない。「解る」ということ自体が、人知の及ぶ狭い範囲の話である。人知が及ばないからといって宇宙が存在しなくなるわけでもなければ、生命が存在を止めるわけではない。数えられないほど膨大であるからといって、数が存在しないわけでもない。我々にとって複雑すぎるからといって、それが排除されて良い訳でもない。

また、人知の及ばないものが、そのように我々の手の届かない遠距離にのみ存在するのでなく、実に身近に存在していないわけでもない。我々は、我々自身の肉体上のメカニカルな仕組みにさえ全然人知が及んでいない。脳の活動や、精神活動に関しては、何をか言わんや、である。

そう言った意味で、我々は音楽に関わりつつ、実は音楽の「何」を理解していない。我々は我々の感動さえ説明できない。それが如何に現実的(リアル)に個人個人に生起していようとも、である。しかし、繰り返すようだが、他人に示せないからといって、それの重要性がなんら揺らぐわけでもない。自覚と認識、そしてそれを信じるところに、その重要性はあるのである。そこには「真実などと云うつまらないもの」があるのではなく、「最高!の個人的現実」があるのである。

Uはまた言った。「いいと思ってしまう音楽には、それが、通俗的にリズムであると認識されるものとは異なる、“パルス”がある」と。それは、(私に言わせれば)時間の流れそのものであり、途切れることのない、そして均一さとも不均一さとも全くかかわりのない、密度をもった何かなのである。おそらく血管中を流れる血液の速度や脈に類似した何かである。それは一般に認識される通俗的な「周期性の反復」であるところのリズムではない。それは「単位時間当たりに流れなければならない、ある濃さをもった流量」であり、すなわちそれは「恒に変化しながら同時に一定である絶対速度」なのである。それはわれわれがこの世の科学で捉えうる様な「存在」ですらないのかも知れない。こうなると俄然宗教めいてくる。

それは、いつもそこにあり、しかしながら常態では意識されることもない、だがそれなくしては我々は存在さえしない、存在を存在たらしめているのもであり、そうした聞こえてくる音の向こう側にある、然して音を我々にとっての音楽(象徴)たらしめる「あるもの」である。

我々は、音を音楽(象徴/意味)として認識しているとき、また、宇宙を浸しているいわば“エーテル”の脈として感じているのであり、そのときは音を単なる音以上の何かとして捉えているのであり、音の向こうにある何かを観ているのである。


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