音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

反神秘主義の音楽論
July 13-16, 2001

これも一種のゲームのようなもので、どんなにシリアスにやってもそれ自体にそんなに深い意味はない。でも、ここまで来ると、書いてて自分でも笑ってしまうのだが、ゲームである以上、行けるところまで真剣に行ってみるのが、やはり私の中に巣くっている「批評精神」への礼儀というものであろう。(July 16, 2001)


自分の凡庸さをことさらに強調しようというのでもない。でも私は自分の“超”感覚的能力(あるいは説明不可能性を拠り所とする能力)をエッセイのような文章のカタチで売り込む気もなければ、音楽の神秘的側面を「私の音楽から読みとるのだ!」と他者に要求する気もない。音の向こうから見えてくるもの、という曰く言い難い音楽のエッセンスが、すぐれた創作結果に共通して在ることは知っているつもり(でも証明できない。だってそれって各自の内的な出来事だから)だけれども、それは「音」という無味乾燥できわめて具体的な物理現象が、まず最初に冷厳と存在しているだけだというのを認識しての話である。したがって、音を出すことでどのようにしてある種の「神秘的側面」が表面化されるのか、ということに個人的な関心はあっても、自分の出そうとする音そのものや、内的な動機の中に潜んでいるかもしれない秘密や、神秘(不思議)も強調する気はない。(← ホントか!)ただ、それは運が良ければ聴いた人が「垣間見るかもしれない」ものであるだけだ。われわれの人生やわれわれの住む世界の神秘をそもそも否定する気はないが、まず音楽をやるに当たっては、「音」そのものに神秘はないと「即物」的に捉えて、いさぎよく正面切って向かうしかない、というのが私の基本姿勢である。

ましてや自分のつくりだす「音楽の良さ」というもの(が、仮にあったとして)を、あるかもしれない神秘的仕組みを説明したり解説したりすることで人にそれを評価して貰おう等とは思わない。私がどのようにやろうとそれは私の勝手であり、また他人がどのようなやり方でやろうと、その仕組みを説明して貰う必要もない。それは語られた瞬間に「能書き」(あるいは自己正当化行為)となるのである。このような言い方は如何にも冷淡であるが、音楽である限り[実は詩もそうだが]われわれは<音>を扱っているのである。しかし、それでも耳から入った音[言葉]から、音そのもの[言葉の原意]以外の「さまざまなこと」が捉えられるという人間の能力も、やはり現実のものとしてある。だからこそ耳を使って聴けば、内的には、さまざまな「真相」が分かるものなのである。説明されなくとも、その場に立ち会えば、たとえば奏者がどのような「やり方」をして奏しているのかは、あらかたのところは分かる(思い込んで間違うことだってある)。私でなくたってそれはそうだろうし、その点で“一般聴衆”の「さまざまな背景を憶測する」能力さえ過小評価できやしない。音楽をやる者は、どのようにしてやっているのか、ではなくて、結果として出た音[あるいは詩]で勝負していきたいものである。

音楽手法の如何に関わらず、作りだした(起きてしまった)ことが“客観”的にどうであったかを、やっている当人達さえ観察できない以上、そのものの出来不出来の評価さえ、自分たちで確かめるに困難を極めるわけである(『分析不可能性と音楽』)。二人のパフォーマーが物理的な影響を受け合わなくても、不可視の影響を与え合い、ある種のシンクロ状態が作りだされうるという仮説があったとしよう。もちろん共演者同士を空間的に隔絶して、<偶然>以上の確率で「シンクロ」が起こるのかどうかをつぶさに見ていかなければ、その有効性を証すことはできない。もし、通常のパフォーマンスの場において、共演者が一見して捉え難いながらも、物理的な何かを共有している可能性もさらに見ていかなければ、その「神秘」の実態は何であるのか判断できない。仮に実験であるとしても、その方法に関しては、通常の場ではいろいろな不備が後から判明してきそうである。何故なら、息づかいやら皮膚から溢れる熱やらあらゆる共演者の発する微妙なもの(オーラと呼びたきゃ呼べばいい)を同じ空間で共有し、それらの情報を総合してある種のシンクロが生じているかもしれないからである。しかし、どうしてそこまでして共演者同士を「隔絶」して、且つ互いがシンクロするという“不思議”を強調する必要があるのかは、私には皆目分からない。どんなやり方をしても結構だ。音を聴いて、あるいはパフォーマンスを見て、納得できる内容になっていればいいのである。

さて自慢じゃないが、私は「即興はかくかくしかじかのものでなければならない」という思いこみはない。ましてや音楽に関しては何をかいわんや、である。パフォーマンスの場における、いわゆる「一期一会の偶然的邂逅」がもっとも尊いものであるという信仰もない(それを言うなら、人生全体が一期一会であって音楽やパフォーマンスの場だけがとりわけ神聖なわけではないでしょう)。したがって共演者が発信している物理的な現象に影響を受けないでやる、ということが即興の唯一の方法だとも思わない。(「即興と銘打つ限り、○○だ」という言い方で、即興のあるべき姿を説明する人が仮にいるのだとすれば、それはそれで即興をすでに「先行するイメージ」(すなわち観念)で捉えているのである。)

いろいろある集団でやる即興音楽の中に、そういうものがあったって、あるいはそういう部分があったって、良いとは思う。しかし、筆者はそれを自分の関与する即興コラボレーションの唯一の方法であると考えてそれだけを採用しようとは思わない。そのような“コラボレーション”が、どのようなものであるのか、おおよそのところは知っているからである。それは、自身の経験から言っているのであるが、また、それを信じない理由を語れと言われれば、それもできる。

音楽の内容より、奏者のカリスマ性が重宝がられる現今の世界だから、こんなことを自分から告白するのは、「得策」ではないことは分かっているが、繰り返すように、私は自分を神秘主義者だとも超常能力者だとも思っていない。私が演奏中に使うものは第六感(あるいはそれに準じたもの)ではなく、最大限動員するものは、始まりから終わりまで、いわゆる通俗的な意味での<五感*>なのである(そして、それこそが私の考える感覚の世界である)。当然の事ながら、音を扱う作業をしているので、わけても私は自分の<耳>に大いに依存しているはずだ。敢えてそうしようと努力しているわけではないが、音楽をやろうと思うと自然とそうなるのである(あるいは、どなたかが、「おまえは耳を使っているようで、実は心の耳で聞いているのだ」とか言って呉れるかもしれないが、別にそれはそれで否定する気もない)。

* いま<五感>と言ってしまったが、その実、耳を最大限使おうとするためか、他の<四感>をシャットアウトしてしまう傾向は、どうしたって出てくる。目を瞑りながら演奏する者が(ジャズなどを含む)即興音楽家の間で多いのは、その点で一向不思議ではない。その方が単純に言って「音に集中できる」「音がよく聞こえる」からである。また音を耳を使って聞くことで、自分の音を使って他者に反応するというのは、即興に限ったことではなくて、あらゆる複数奏者によるアンサンブルがそれを必要としているのであり、「聴いてから反応するというのでは遅すぎ」て不可能なのであれば、今までいかなる真のアンサンブルも成立してこなかったことになる(しかし、それは私の経験と現状認識に反する)。聴いてから反応できないのであれば、その人は、能力(生来)的に人と音楽ができないということを意味するのである。

こんな事ばかりを言うと、「音楽 → 音 → 物理現象 → 不思議はない」という無味乾燥な「音楽観」/「世界観」を遵奉しているとしか思われないだろうから、言い訳をしておくと、ここでは具体的な身体行為である音楽活動の話をしているのであって、あえて、われわれの五感で捉えられる世界について話しているのである。だが、そうした「不思議なことはひとつもない」現象界における出来事に対して、音を出す本人自身やその奏者の音を聴く人たちの経験の内容(捉え方や、感じ方や、あるいは「理解」)の中にこそ、到底予想もつかない神秘的な側面があるのだ。それこそが無視できないことである。もちろん、それを言う人たちの言葉を誰もが信じる必要はないが、もしそれが内的体験として当人に「現に起こった」のだとすれば、それこそが唯一の神秘なのである。はたして、生けるものの<心>の存在自体やそうした内面世界で起こるさまざまな<出来事>以上の神秘があるだろうか。そして、私はその次元での神秘しか信じない。どんな唯物論者が私の内的体験がプログラムされた「幻想である」みたいなことを囁いても、この確かさだけは揺るがない。そして、その存在自体が「すぐれた言葉=詩」以外の言葉では到底表せないモノなのである。

したがって、この世に鳴り響く音楽自体は、<音>でしかない。本来、音楽は<音>以上でも以下でもないのである。そうした物理的で冷厳無比な世界に属しようのない「捉えようがない」手法なり知恵なり技なりの存在をことさらに強調して自分の音楽について語る人の、本当の動機というのを私は知りたいものだと思う。そこには、自分という奏者(あるいは似たようなアプローチを採る仲間の奏者)の“神秘的側面”を強調しようという以外の、どのような意義があるのだろうか。

私は自分が他人の内面に起こしたのではなく、他人の音楽を聴くことで自分の内面に起きたできごとの神秘的体験を人に話したいとは思う。しかし、奏者としての自分の内面に生じたことや、普段生じていることを、オーディエンスに説明することに意義を覚えない。そのようなことは、この際、聴いている人たちには関係のないことだからである。もちろん、敢えてひとに訊かれて興が乗れば、そのような話をするハメになることはあるかもしれないが。


いろいろ書きましたが...
「ほかならぬ五感で音楽をやる」と強調する、ここでのつまらぬ私の言葉ではなく、私のを聴いた上で、それがつまらぬ音であるか否かを判断して欲しいのです。(私の「考え」によって私のつくるものが本当につまらぬものになっていると考えるなら、どの部分がどうなのか指摘した上で納得のできる説明をしてくれればいいのです。)なぜなら、私はあなた自身の出す音が、あなたの持っている考えや思い込み、あるいは一度記述された言葉の内容のために、無価値になるなどとは思っていないのですから。あなたが何を信じようと、それはあなたの自由であり、あなたの拘泥(こだわり)が手法や手段の領域へと侵食し、あなたのもっともプリミティブな音を出す動機を凌駕することがない限り、少なくとも音を出すその瞬間に、音に対してだけあなたの集中が向いている以上、あなたの出す音の内容(ポエジー)は、信用に値するものだからです。

でも、敢えてもう一度言いますが、あなたが出しているものも、この世に鳴り響く以上、それは<音>以上でも、以下でもない、<音>そのものなんです。あなたの音を捉える各人の中に、神秘はあるのです。


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