音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

「発展しない」は「退歩する」を意味するか[前半]
December 13-14 , 2000
 
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つい先頃、私は「消費される文化活動」は発展しなければならないとの旨を述べた。これは私の積極的意見であるというよりは、知っていなければならない消費に関わる生産行為の一つの原理ではなかろうか。クルマでもパソコンでもケータイでも漸次発表されるものは、その前に出たものより良くなければならない。少なくとも性能的に同じ様なものであるなら、それを今度は以前より安価に供給しなければならない。それは市場の競争原理が働くからというのがありそうな説明である。そこで、進歩・発展することの意味を、私自身の当面の関心事の一つである音楽に引き寄せて考えてみると、ある時代以降のclassical musicの「発展」も、現在進行中のpopular musicの世界で起きている急速なる変化も、そうした市場の競争原理によって説明できるように思うのである。ただし、ここでこのように取り敢えず状況を説明しようとしていること自体では、何ものに対しても善悪の価値判断は下していないつもりである。消費される商業的な「文化財」すなわちpopular musicには価値がないとか、classical musicは発展すべきでなかったとかそういうことをこの段落で言いたいのではない。

なぜ、進歩・発展がこうした資本主義の原理以外の場所においてさえ適用されてしまうのであろう? またどうしてそれが必要であるとわれわれは決め込んでしまうのだろう? あるいは、なぜ「進歩・発展しなくても良いもの」がわれわれの中にあることを認められないのか? ただ、こうしたことをまず問いたいのである。

我が身を振り返ると、音楽をつくりだそうとする状況で、作曲だろうが即興だろうがその方法に関わりなく、そう大差なくわれわれの関心をしばしば捉えてしまうこととして、「より新しい方法」や「より真新しい結果」ということがあるのではないだろうか。しかし、音楽の本質とはそうした新しさにあるのかと改めて問われれば、実はそうではないのではないかと気づき始めている人も多いと思う。事あるごとに新しさを過剰に意識し始める判断は、「自己の創作活動は商売のためではない」と説明する人々の間においてさえ、しばしば採られることである。それが実はわれわれの中に根強く巣くっている独特の思考回路*に他ならないとしても、そうした欲求や判断が如何しがたく頭をもたげてくるならば、せめてなぜそれを欲するのか、あるいは誰を想定して判断するのかを今一度意識してみることが肝要なのではないか。

* 前に進み、向上し、発展していかなければならない、というスローガン、あるいはそれに準じた旗印を当たり前のものだとして、疑問にさえ思わない、その傾向を指しているであり、それが現代社会を生きるわれわれのほとんどすべてが無条件に受け容れている以上、まさに「信仰」と呼ばれるにふさわしいものである。

無差別的に大衆を対象として作品が広く消費されることを望むのであれば、とりわけ「より新しく」を追求する努力は必要条件であろう。飽きられてしまうことは最大の問題なのだ。プロの音楽家たろうとするならば、それはなおさら当然である。ジャンルを問わず、音楽雑誌をざっとめくってみても、大概の「アーティスト」がどのような工夫をしてそのような新しいサウンドや、古典の新奇な解釈やら演奏が可能であったかの自慢話(他慢話)のオンパレードであることが分かる。だがそうではなく、同じことの「繰り返し」=「反復」を退屈だと感じてしまう(即興)演奏家や(現代)作曲家たる本人(たち)の内的傾向が問題なのではないか。そう考えると「だから何かを新しくしよう」と無反省に考えるだけでなく、退屈してしまう自分たちの性向や自分を退屈させてしまう表現の本質的特性自体を検討の対象とすべきたることに初めて気づくのである。

ここで、消費されることを望んでいるのではなく、より「普遍的な評価」を受けたいと考えている「深遠にして理想主義的なる今日的創作家」たるわれわれとしては、自分たちが進んでいこうとしている作曲なり即興なりの方法で、なぜ新しいモノ(新鮮なもの)を常に求めてしまうのかを改めて考えていきたいのである。すなわち、自分たちの住む世界が消費社会であるか否かに関わらず、創作や表現にあたって、差し当たり飽きやすい自分たちや大衆の心理を勘案に入れ、そうした者達の傾向をつねに考察の射程に入れるべきなのか、それとも、より本質的考察として、自分たちにとっても大衆にとっても変わらぬものとは一体何か、ということをもっと真剣に考えるか、そのどちらかなのである。

前論からも伺い知れるように、もし、進歩・発展の窮極的局面が「逸脱」であることを免れず、かつ一方でその際限なき「自由表現」の結末たる「退廃」を誘発する原因としかならないのであれば、「発展しない」は、むしろ「退歩する」からのきわめて賢明なディフェンスとなる。「発展」から背を向ける者は、「逸脱」からも「退歩」からも恒常的に自由なのである。つまり変化するものに執着しなかった方が結局自由であった、という大変結構な逆説が見いだせるのである。

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