音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

「発展しない」は「退歩する」を意味するか[後半]
December 13-14 , 2000
 
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もっと話題を身近に引き寄せて、「即興演奏家が新しい方法から背を向ける」こととは何か? そのひとつは反復を怖れないことだと考える。だいたいが、むやみに創作されたモノがそれぞれ「似通ってくる」ことを嘆くのはどうしたものか。われわれに言わせれば、即興という方法論を採るということはむしろ、無限の多様性(diversity)を各個人の中に招き寄せることでは断じてなく、むしろ個人の単一性(unity/identity)に期待することだと理解している。その制限ある閾の内側における表現追求の中で、新しいものが次から次へと湧き出てくることは、ある程度までは期待できるかもしれないが、むしろ各個人の「引き出し」の中に潜んでいるものの単一性とそれを選択した(してしまう)即興者や作曲者の傾向や趣味こそがその人の個人性であり、その「個の普遍性」の部分と考えられるべきであろう*。言ってみれば、「いと、をかし」の部分である。

* 無条件の普遍性というものを懐疑する拙論はこちら

多様・新奇であるべきかということは本質論ではなく、自分の中にある退屈とそれを避けたい欲求の度合いによって、不便を意識するその都度、適宜、工夫されればいいことなのである。要すれば「自分で退屈ならなんか別のことをしたら?」ということに他ならない。

それより、何度も言うようだが、どうしてわれわれ現代人は反復を恥じるのか。反復を言うなら、「似たような」交響曲を100以上作曲したJ・ハイドンは異常性格なのか? 「似たような」バイナリーフォームで500曲を優に上回るソナタを書いたD・スカルラッティは偏執狂なのか? われわれの物差しでそう断定しきることは簡単だが、私はそのように考えない。まず、われわれの耳に似たようにしか聞こえない(かも知れない)彼らの膨大な作品群は、彼らにとってはある特定言語を使った正に多様な表現の爆発であったのだし、ハイドンを好む人にとっては今日でも彼のひとつひとつの音楽はすべて違うものだ。スカルラッティを好んで弾くものにとっては遺されたその膨大な作品集からは、無限の宇宙を踊り巡るような体験を約束されるだろう。フランス語でしか話せないからと言って、それを使って語られる理論が限定的であることを必ずしも意味しないのと同じように。多くの言語を話せることはひとつのアドバンテージではあろうが、ひとつのランゲージを使って思想を深めることはまったく無分別なことではあるまい。ましてや「同じ曲」と理解されているひとつの楽曲も、異なる奏者によって演奏されるや、まったく違うものとして立ち現されることなどよくあることだった(過去形で書かざるを得ないのはまことに残念だが)反復と言ってもその内容が同じであることなどまずあり得ないのである。ただ、その違いを認識するのに受け手側のある程度の習熟が必要なだけである。その意味においてならハイドンを理解する努力も即興を理解する努力も同じような程度*であるかもしれない。

* たとえばW・A・モーツァルトにしても、彼の書いたピアノ・コンチェルトの最初の第一音を聴いた瞬間から最後まで愉悦にひたれる人と最初の数小節を聴いただけで退屈し始める人がいるものの、前者でさえ最初は大概が後者であったはずで、それを「ひたる」に値することに気づくのに少々の挑戦と若干の辛抱が必要だ、ということである。すべてのモーツァルトがそうでないのと同じように、すべての即興もそうでないわけだが、良いものに関しては最初の関心を惹く魅力がその中に備わっていなければならないのは言うまでもない。

もちろん、怖れるなと言っているだけで、反復がつまらなく感じられるものもあれば、何度でも反復して欲しいと願うようなものもある。ここでは必要条件のひとつを語っているに過ぎず、良い音楽の十分条件を列挙する意図もなければ、そのようなことが簡単でないことは、優れた音楽家なら誰でも知っていることだ。その意味で、ただ自己を反復すればいい、と主張しているわけではない。ただ、反復するに値するものを見つけてそれだけで勝負していくというのなら、それは全然愚かなことではない。たとえば自分のやる楽器は「篳篥だ」、「オーボエだ」と決めることは、その狭いレンジの楽器の中である制限されたパターンを反復していくことを決心することだ。だが、「篳篥(やオーボエ)でやっていく」と決めた人間の音楽は狭いのか。(そういう可能性もあるが)そうとは限るまい。狭いレンジの楽器で広大な宇宙を表現することはその技量によっては可能なわけだ。すべてについて「狭くて広い」ということが言えるだろう。どの部分に宇宙を感じるかであり、即興もその至る先は狭くて同時に広い、という代物であるはずなのだ。

そんなわけで、即興さえ「良い状態に達したもの」は、反復されることを嫌うどころか、永遠にそのまま続けて欲しいと思えるような時間をもたらす。「何度やっても同じ様な状態になる」かもしれない即興自体が悪いのでなく、「同じようになっても、なおすべて良い」という状態をめざせばいいだけの話である。その良さが分かる聴衆の幾人かは何度でもライブに足を運ぶだろうし、録音テープやディスクをまさに反復して聴くだろう。「同じ結果になる」のが悪いのではなく、ある程度そうした状態になることが必然であることを知る必要がある。またそれが良い反復なのか悪い反復なのかを別途判断すべきなのである。演奏者自体が愛せない反復であるなら、何が問題なのか検討すればいいし、別の結果が期待できないことを理由に即興なんぞ辞めてしまう自由もある。別の形態の即興の可能性を探るもよし、作曲を試してみるのもよし、ではないか。

少なくとも表現者たるわれわれが「消費に関わる文化活動」でないものも目指してみようと言うなら、自分が「これしかない」と信じる音を一度も出さずに新しい構造や方法論の発案に走るより、何度も自分らしさを臆面もなく反復できる方がはるかに表現者として偉大だと考えたい。そしてそれは「芸能」のひとつのあり方であるかもしれない。また、そうした一徹な表現者の中にこそ、時代を超える(かもしれない)「普遍的な内容」が見出せるように思えるのである。先程のスカルラッテにしてもハイドンにしても、自分が「これだ」と思った表現方法を生涯かけて深化させていったのであり、進化というものが仮にあるとすれば、ある種の“進化”は個々の表現者の中で一生掛かって生起したことである。そして、他者のつくりだした新たなアイデアへの方法論上のさらなる歴史的積み重ねのみが価値を持つ、という資本主義経済の永遠の発展の如き幻想を創作の世界から一刻も早く捨て去るべきである。なぜなら、「そうしなければわれわれは退歩してしまう」という主張自体がこの世界では何の根拠も持たないものであるからだ*。

* 変わらぬものがすべて退歩してしまうということが真であるならば、なぜ千年以上もの間変化せずに、保存されていた非西洋音楽が世界中に未だに散見されるのであろう?

即興者も今日得られた結果をもとに一喜一憂するべきではなかろう。即興の優位性を本当に信じるなら、生涯掛けて自分の方法を追求し、見つけだせたと思えればむしろ幸いだったと考えればいいのである。発展しなければ退歩してしまうと信じる多くの現代の表現者に対して、われわれが抽象的な主張から一歩踏み出して、有り体な意見を述べることが許されるならこうなるだろう:

もしわれわれに進歩・発展できる部分が残されているとすれば、それはより美しく楽器を鳴らす術であり、歌う技であろう。いや、そこにのみ発展する方向性が広大な領域として開けており、本質的な美や体験は音楽の「構造」や「理論」の中にはないのだ、と。
(終わり)

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