音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

非コンセプト者『宣言』
November 25-26, 2002

「期待をいだかず、心身を抑制し、すべての所有物を捨て、身体のみによる行為を行う者は、
なんら罪過を得ることはない」-- バガヴァット・ギーター


「音自体には意味がない。意味を捉えたのはわれわれの内面世界である。」

る行為の指針、とりわけ創作行為の基本的方針を決めるにあたって、「熟考を差し挟まない」ということは、“より深く考えている”と自認する人々によって、消極的な態度と捉えられるばかりか、ひいては愚鈍さや知性の欠乏、そして考える力の欠如として認識されがちである。とりわけ現代の“芸術”運動の渦中において、創作家やある創作過程に“深い思慮”が伴わないものとして捉えられれば、その作品の評価や創作家の運命は致命的でさえある。しかし、ある地点まで必要とあらば考えることを自己に強い、創作のある過程に達した以降、それを放棄して突き進むというのは、はたして愚鈍の徴(しるし)であろうか? 知性を感じさせない態度や方針が知的な確信の裏付けであるということがあり得ないのであろうか? この『宣言』文は、そうした現代の高尚たる“芸術”音楽の運動に根本的な疑問を提示し、考えない音楽行為が、考え抜かれた音楽行為を容易にその内容において凌駕しうること、物事や現象に去来する象徴を把握する、普段は意識されない人間の能力の存在に注意を喚起し、それを信頼し、われわれの即興音楽行為の中枢として据え、即興音楽を通じて、失われつつある音楽の本来の機能を取り戻そうという呼びかけを宣言するものである。

ひとつ断っておく必要のあることとは、こうしたいわば「思慮を伴わない」音楽創作上のアプローチというものが、唯一の方法であると主張するものではない。それが音楽本来の機能を取り戻そうという目的に叶ったものであり、いわゆる「思慮を伴った」音楽創作上のアプローチとの比較に於いて、相対的に優位にあるということを控えめに論じようとしているに過ぎず、われわれの即興音楽のアプローチとして選択する価値のある方法であるということを改めて確認しようとしているだけなのである。

さて、「反コンセプト主義」というフレエズを『宣言』に入れ込む考えもあったところだったが、それでは「コンセプト主義」という立場をいったん認めた上での安っぽいアンチテーゼにほかならず、それはまた「別名のコンセプト主義」に陥ることが避け難い。即興を通じておこなわれるわれわれの音楽創作上の考え、あるいは態度が、いかなる恣意的なコンセプトにも従属せず、いかなるコンセプトも意図して包含せず、そもそもコンセプトに縛られることが、音楽の創造過程でとりわけ役にも立たないばかりか、むしろ受け手の側にとっても有害であるという認識にこの宣言は立脚する。従って「反コンセプト」ではなく、「コンセプトに非ざるもの」という意味で「非コンセプト」なるフレエズを提唱するのであり、その上でこの『宣言』を立ち上げようと企てるのである。

これは、むしろ音楽行為の立会人たる観賞者の音楽を「理解」しようという気持ちを無視した一方的かつ独善的な言説というよりは、むしろ観賞者の象徴把握の能力を過小評価できないという現実認識の上に立つ、賢明かつ公平な選択である。音楽作品の狙いやアウトラインを示すことで、理解の手がかりを提供し、音楽作品の観賞を「容易」にするということがむしろ観賞者の想像力の飛翔を制限することでしかないという一貫した確信をあらためて表明しているのである。そもそも、何が起こるかさえ分からない演奏者本人の期待を容易に超える結果を出す即興作品のアウトラインなるものを、どのようにしてあらかじめ示すことが出来ようか。

以上の理由ために、われわれに相応しい『宣言』が「反コンセプト主義*者」のためではなく、「非コンセプト者」すなわち「コンセプトに非ざる者」のためである、というのは偶然ではない。

* 「主義」という言葉が、人間の“理性”の創り出した数ある論理や思想、そして主張の中からあえてひとつの何かを主体的に選び採ることができるという前提に立った観念上の産物である以上、それもわれわれの活動にとって相応しからざる言葉である。狭量なコンセプト主義というものはわれわれの周囲にいくらでもあっても、この世に本来在りうるものは、実は「反コンセプト主義」にほかならず、実は決して「非コンセプト主義」ではないのである。また「非コンセプト者」はこの世にいても「非コンセプト主義者」は存在しえないのである(それは言葉上の矛盾である)。そしてわれわれが純音楽的体験に関わる者である限り、それを意識しようとしまいと、われわれは(コンセプト主義を敢えて便宜上選ぶことはできても、)非コンセプト者の音楽家(鑑賞者)として、あらかじめ生まれてきたのである。

改めて、音楽活動に先立つコンセプトを否定することは、「何も考えていない」を意味しない。ましてや「何も感じていない」からは、ほど遠い。始められた行為の指針を捨て去ることが、われわれの期待を超える即興作品を生み出す契機になる。しかも、この創作過程とは、われわれ創作者の努力や苦悩を差し引くものでもない。偶然にのみ依頼するものでもない。神秘的体験としての「必然」性を暗示する偶然(偶発事)を引き起こすための、創作者の能動的な作品への関与なしに劇的な物語性が発生するはずもないのである。

コンセプトを積極的に保持しようとしない音楽/音楽行為が、結果としてそれを受け取った者の内面でコンセプトらしきものをコンシィーヴ(conceive = conceptの動詞:受け取る)したり、また何らかの意味合いを精神的に発展させたりしたとしても、それを断じて否定するものではなく、この宣言文は、観賞者による積極的な解釈なり感受を大いに奨励するものでしかない。というより、最大に讃えるものである。われわれは、音楽を造る者の想像力に欠如した(あるいは欠如の可能性のある)知的概念の枠組み造りによらず、音の潜在的効果と受け取る側の内的神秘を最大限に尊重するものである。これは受け手の側のコンセプション(conception:受胎、着床)の過程をそれぞれの心の内奥にて温め、その共有不能に見える各自の内面生活において、伸長することを期待するのである(あるいは、期待せずとも起こることだということをあらためて確認するのである)。

歴史的に、われわれが親しんできて、その偉大さを讃えて止まなかった西欧の発展系の音楽というものは、近代以降はとりわけ明瞭なことだが、そのほとんどが絶対音楽であった*。表題のない交響曲群がそうであり、多くのソナタ形式の音楽はそうであった。そして、実は、多くの具体的表題を持つ音楽作品が、実は、その見せかけのテーマ性を隠れ蓑にして行われた、純粋な音楽体験のための一手段であった。それはこれからも変わらないことである。契機は、音への興味と好奇心であり、それに向かう純粋な努力、悦楽の探求こそが歴史的音楽活動の本流であり、創作動機の奔流である。そして、こうした運動を音の伝統保持者たるわれわれは、断じて正当なものと見なす。そして、世界の随所に見出される非発展系の音楽(民族音楽の大部分)というものが、単なる歌への伴奏や言葉による直截的表現としてのみならず、楽器奏者や肉体リード奏者(声帯)による悦楽への飽くなき追求であり、歌の表面的な目的である「物語の伝達」からも全く“逸脱”した逆説的成果をもたらす。これは、音楽の何に依らず、音楽言語に共通した根本性質によるものである。それは、音楽において企図され得ないより大きな象徴の顕現、すなわち、始まり(α)があり、終わり(Ω)がある、別物語としての純粋な音の列となりうる。それがわれわれの理性によって意図されない場合には、特に。

* 受難曲など宗教を題材にした音楽をもって、音楽がものごとの具象化にも資する存在であるということは敢えて否定しない。しかし、そうしたオペラやミュージカルのように機能的効果が期待された宗教音楽でさえも、その存在は、根本的に音楽の持つ元来の「宗教」的特質を否定するどころか、その本質的効果に依存しているというべきであり、本論の何らの反証にならないのである。別論『音楽の宗教性、もとい、宗教の音楽性』を参照。

音楽創作ということ自体が最大級に偉大な人間行為の不滅の<コンセプト>であり、それにあれこれ理由と付ける行為とは、生まれてしまったわれわれが、生きることに理由付けをしようと、今さらながら自身の生に正当化を試みるに等しい冒涜行為なのである。われわれはわれわれがすでにあるように音楽を行為すべきなのである。そして、創作とプランが同時的に生起する即興音楽の分野に於いてはなおさら、最大限にその効果が期待でき、努力を傾けるに値する創作態度として鼓舞されるべきなのである。

われわれが詩を伴う<歌>という音楽分野以外に、もし純粋な音の操作に音楽の活路を見出そうというのなら、それは、非コンセプチュアルな(コンセプトに非ざる)単なる音であり、音色であり、響きの世界、においてこそである。断じて、音自体には意味がない。音に意味を捉えたのはわれわれの内面世界である。言葉には意味があり、意味そのものであって、本来、それ以上でも、以下でもない。一方、意味がないから音には救済がある。意味のない美の創作過程に献身するから、その瞬間にわれわれは恐れから解放される。創られた結果から意味を感じ取り、われわれ個人の生と死が、そして世界の誕生と滅亡を読みとるのであり、そして、そこに懼れと慰めがある。こうした、文学でも絵画でも映画でもない、純粋な非意味的な存在である音の、音楽の、最も大きな特権を最大限味わい尽くそう、そうした創作過程に我を忘れて打ち込もうではないか、というのが、この「非コンセプト者宣言」の主旨なのである。


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