音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

逸脱した「現代」作曲家
October 28, 2000

(このようなことを言うと、だから現代の作曲家たちはそれを成すべく頑張っているではないか、とすぐに返ってくる。)本旨から脱線するのは本意ではないので、このように別ページにしたが、簡単に触れれば、音楽の中の秘密は、断じて音の中から出て来て最終的に耳によって捉えられるものでなければならない。その価値を全面に否定するものではないものの、本質的に音楽は、作曲技法の中に隠され、入念な分析後に初めて認知されるようなものであるべきではない。どのように複雑な作曲技法上の仕掛けを用いようとも、いかに凝ったセオリーを採用してもそれは作者の勝手だが、それは進行していく音楽を聴く時間の流れのなかで把握されなければ意味がない。ただ、きいてそれを音楽として聴取者がただち認識できるかどうかは、聴く側の熟練の度合いによって大いに左右されるだろうことを否定するものでもない。ただし、それはアナリシスの鍛錬ではなく、あくまでも聴く方の慣れの問題なのである。それは食べ物の中にも食べ付けるに徐々に分かってくる味があるというのと同じ意味でのはなしである。

私は余りに当たり前のことを言っているのであって、音楽を専門にやっていない人によってなら、当たり前のこととして考えられていることが、こと音楽の「もっとも進歩的な専門家」がこのことを扱うと、音に関わったり、音を創りだそうとしているとは到底思えないほどの逸脱がしばしばあるのである。これは本質的に時間のなかで把握されるべき創作分野につきもののきわめて独特の課題であり、とりわけ音楽の分野で顕著な問題である。その逸脱については、どこか別のところでも書いたが、料理で勝負しようとしている者が、最終的に作品が味覚によって判断されるべきであることを忘れて、調味材や水や肉などの「量」や「混合する順番」に象徴的意味を込めて調理するようなものであり、味わう者が舌によって意味として把握できない部分に凝るようなものだ(勿論、それを禁止するものではないが、それは調理者の自己満足でしかない)。

茶道は勿論、ただ入れられたお茶に親しむだけの単純な嗜好品を介した娯楽ではないが、お茶を中心に「人をもてなす」ときの一連の作法や形式の意味というものは、くり返される動作の中やあらかじめ用意してある道具の準備の中にあっても、もてなしの進行する最中に視覚や聴覚や味覚や嗅覚で把握できない種類のものではない。勿論、それらの真意が大いに「わかりにくいもの」であるだろうし、巧妙に隠されたものでもあるかもしれないが、それは招待されたゲストが襖の後に回って何が起きているのかを(アナライズして)みなければ分からないと言う種類のものではない。

したがって、スコアを繰ってみて初めて分かる類の音楽理論上の秘密など秘密のうちに入らない。 音で秘密を経験できなければ音楽である意味がない。もう一度くり返せば、スコアの中に秘密を入れるのならば、その「作曲者」は、ページを繰って読み解いてもらう作品をつくる「推理小説作家」になるか、クロスワードパズル作家になってもらう方がましである。

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