音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

週末(終末)音楽家のある週末 (another one of)
September 6, 2004
 
English version

aspects B:
 河合拓始 (企画、ピアニカ)
 狩俣道夫(フルート、声)
 ナ カ ミ ゾ(オーボエ、イングリッシュホルン)

というライヴがあった。昨夜、日曜日Grapefruit Moon*という三軒茶屋のクラブで。(クラブ? ライヴハウスというべきか? それにしてもクラブとライヴハウスってどう違うんだろう? 作りが大雑把で全員立ち見、がクラブなのかな?)

* しかし、だ。3バンド出演の3番目というのは、なんとも時間が辛い。出演順の逆で、4-5時音出し9時半出演(実際は10時頃だった)、となると、なんと4時間半、自分の出演まで待たなければならない。これは、店や他の出演者にとっては合理的カモシレナイが、3番目に選ばれたグループからしてみたら、ビンボー籤というところか? いや、「ライヴのトリ」という「栄誉ある?」立場にはそれだけのトークンを支払わなければならないのか?しかし、栄誉という感じでもなかったな。そんなことはこの際どうでも良いんだけど。

演った音楽について。久しぶりに、随分難しいことやった。精神力的にも肉体的にも限界に近いことをやるライヴであったとも言える。だが、それにチャレンジしただけの音楽的成果があった。と思う。

まず、音数が少ない。自分が吹いた音なんか、ちょっと誇張かも知れないが、「音符」に直したら100の音符も吹かなかったかもしれない。仮に、平均して音数が1分間に2つ前後だったとしたら、100以下だった可能性もある(40分きっかりだというのに、う〜む、何てぇ即興だ)。それほど主としてロングトーンで出来た40分の音楽。河合さんの考えたアイデアと「ほぼ厳密な時間の流れ」があっただけに、彼にとってそれは「作曲」に近い作品だったかもしれない。それを河合さんがどう考えるかは私には分からない。

しかし、それが作曲だったとして、自分はちょっと違った意味で、それが「作曲」に近いものだったと、いまは考えている。それはむしろ、「リアルタイムの3人の共同作業による本来的な意味でのスポンテイニアスな作曲」だったという意味で、である。確かに、即興は、すべからく、リアルタイムの共同作業的な作曲である、という言い方は出来よう。だが、それなら昨夜の「即興」だけをそう呼ぶ理由はなくなる。

だから、敢えてここで、普段の即興が自分にとって「リアルタイムな作曲」であると言えるのか、とみずから問うてみよう。有り体に言えば、それはそうではないとも言える。なぜなら、それは「自分が意図して選んでいない音」「意図しても出なかった音」「他人の出している音」「他人が出しているのに気づかなかった音」など、不確定の音(非音)要素の比率が、当然ながら普段の即興には多くなるからである。

あんがい、確定的な要素は演奏家の「単なる手癖」だったりするかもしれない(認めてやるぜ)のだ。「音を意思の支配下に置くことこそ、音楽家の目指すべき至高のことである」と考える評論家や即興音楽の実践家がいたとしたら、こうした私の包み隠さない言い方には、眉をひそめるかもしれない*。だが、それならば訊くが、一体、「自分の意図した音」だけで成り立っている「即興」や「ナマの音楽」なるものに挑戦する意味があるのだろうか。そもそも、なぜ即興を選ぶのか? なぜ、ナマの演奏を聴きに行くのか?

*「手癖」を批判したキース・ジャレットあたりの言説を得意げに借用して、あるいは盲信して、「手癖 = 悪」と口にしているシロウト音楽鑑賞者には、「作曲者の手癖の反映しなかったピアノ作品の名曲はない。ショパンやバルトークでも、そしてベートーヴェンやモーツァルトだって例外ではない、と言っておこう。そもそも、一体どうしてその「手癖」が出現したんだと思う? それはその手癖を打ち立てる前に、その音型を演奏家や作曲家が「格好いい」と思ったからである。つまり、それが「手癖になるほどに」その音型を愛したのである。(手癖が嫌な人にはチャンスオペレーションの電子音楽などをお勧めします。即興はあなたに向いていません。)おっと、ちなみに私はキース・ジャレットの「手癖」の部分がとても好きです。

実は、作曲家の永年あこがれてきた不確定要素(≒意図的コントロール埒外の要素)への傾斜の最たるものが、「即興」ではなかったのか。そして、あれだけ飽きるほど聴いた歌モノをまたライヴ会場で聞こうと思うのは、そうした自分の知っている音楽の不確定的な現れを期待していると言うことではないのか。

たしかに、「手癖」に限って言えば、「本人にとってどうしようもない」という意味で、「コントロール外の要素」であるが、その面白いところは「確定的な要素」であるとも言える部分だ。ここで言う確定的、と言うのは、ある種の音楽(音型)に対する抗しがたい、創作家の美的センスが、そこに集約され得るという意味である。

加えて、そこには複数の人間で行う偶発事態という「あきらかな制御不能」へ挑むことの楽しみがあるのだ。そして、その挑戦の果てにあって、試した人にだけ与えられる果実、そういうものがあるからこそやるのだろう。

私に言わせれば、意図以外の(意外な)音のために、予測は不可能になり、「その場その場での忙しい状況への対応に追われる」もとい「降りかかる火の粉を追うのに忙しい」という状態をよく楽しむことができる。

(話はここで昨日のことに戻る。)それが、普段の即興であるとしたら、昨夜の「即興」は、実に同時発生的な(リアルタイムな)しかも共同作業による作曲であった、と思えるのである。そのようなことが可能なのは、十分に遅い音楽(たとえば、十分に引き延ばされたロングトーンで即興が造り上げられているなど)の場合だ。音を出しながら、同時に鳴っているすべての音を「把握しないで済ませる」ことが不可能なのだ。しかも、似たような音色、音域、音の太さの楽器が3つも集まれば、相手の極めて微妙な音色や音の太さなどの変化にも鋭敏になり、しかもそうした微細なレベルでの自分の出す音の制御が、きわめて自然な振る舞いとなって演奏に出てくる。

このようなことを言うと、普段どんなレベルの音の制御を行っているのかと問い正されそうである。実際、昨夜の演奏のような極限的な細心の注意を40分間に渡って払わされる、という即興は、事実初めてであった、と告白せざるを得ない。しかし、それだけに、普段自分の即興を通じてやっていることの内容を省みることの出来る、貴重な機会であったのだ。

「演奏者本人が演奏を通じて何を学んだか、なんてぇこたぁどうでも良くて、それで出来はどうだったんで?」と問う方もいよう。結果論、大いに結構。まったくもって正当な問いだ。それには、演奏を聴いた人に直接訊いて貰うか、その演奏実況のごく一部を捉えた録音に接していただき、各自判断して頂くしかない。録音で良かったら、喜んでお聴かせしましょう。自分で言うのは何ですが、なかなか良いものですよ。

それにしても、こうした特別な一夕をともに過ごし、苦しくも楽しい「試み」の立ち会いをして下さった方々には、まこと感謝の気持ちで一杯である。

そうそう。私には、対バンの2グループの音楽は、どちらも非常に共感を持てた。どちらも、機会があればまた聴きたいと思った。そして、対バンとなり、聴くことが出来たのは実に幸運であった。

http://www.grapefruit-moon.com/


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