音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

個別に語る必要[1]
November 9, 2000

March 19, 2001 Last edition

これはひとつのカテゴリー論議である。あるいは、そうした論議へと昇格していくかもしれないひとつの問題提起である。はたまた、ほとんどの拙論がそうであるのと同様に、そのままうち捨てられ忘れ去られていく多くの戯言(たわごと)のひとつである。(added in June 13, 2001)


しばしばわれわれは、シャガールがいいと言い、ピカソが最高だと言い、バルトークが好みだと言い、ストラヴィンスキーが偉大だといい、また、ローランド・カークがカミサマだと口にする。しかしそれは本当のことか? そのようなことがあるのか? 筆者の私は「カンディンスキーが確かにお気に入りの画家のひとりである」とは言うかもしれないが、彼の作品すべてを無条件に愛しているわけではないはずだ。彼の幾つか特定の作品が好きなのである。そして、そのある「特定の作品」に関して言えば、もうそれは「好き」とかなんとか言う問題の話でないぐらいパーソナルかつ切実な重要性があったりするわけだ。

私はバルトークの全作品が本当に好きなのか? そうではあるまい。私はバルトークのピアノ作品のいくつかと室内楽のいくつか、そして1,2の管弦楽曲が好きなだけだ。ストラヴィンスキーとかなるとすべてを愛することなど、まったくできない。ピカソは余りお気に入りの画家ではないが、だからといってすべての作品を否定できるほど彼の作品を私は知っているのか? いつか視たピカソが描いたと言われるワインレーベル用のドローイングは躍動感があって良いと思ったことがあったっけ。おそらく私が見たいくつかのピカソの作品を以て、私は「余り好きでない」と言っているだけなのだ。私はマイルズ・デイヴィスのスタジオ録音作品のほとんどを聴いた(と勝手に思っている)が、そのいくつかが自分にとって格別であるに過ぎまい。だから、わたしはマイルズのファン(fan = fanatic)だ、などと本当は言えないのである。

しかしそれぞれの創作家を個別に語ることの重要性は、単にこうした創作家個人を“公平に”語ろうと試みるときのみならず、いわゆる「ジャンル」に関してわれわれが語ろうとするときにこそ、より一層の注意が払われなければならないのである。

「70年代のポップスファン」を自称する者がいて、彼は本当にすべての70年代につくられたポップス作品が好きなのか。当たり前なことだが、そうではなくて70年代に録音されたいくつかのアーティストのある特定のポップスが「お気に入り」であるに過ぎまい。一方、誰かが「バロック音楽を好きだ」という時、それはモンテヴェルディ (1567-1643) に始まり、大バッハ (1685-1750) に終わると言われるバロック期のあの約150年間のすべての作品が好きなわけではないだろう(当たり前に聞こえるだろうが)。彼はきっと分けてもJ.S.バッハの“代表作”の幾つかとヘンデルのコンチェルトグロッソの何曲かが好きなだけかもしれない。A.ヴィヴァルディとかになると、案外「嫌いな作曲家」だったりするのだろう。アルビノーニに至っては、バロック期の作曲家であることさえ認識していないかもしれない。筆者自身もバッハが好きだと言うよりは、ある特定の演奏家、たとえばパブロ・カザルスによって指揮され70年代初期にマールボロ音楽祭オーケストラが演奏したブランデンブルグ協奏曲第5番の2楽章が好きだ、とかフランス・ブリュッヘンによって指揮された古楽器による『ロ短調ミサ』が良かったとか、(オルガン用)トリオソナタをオーボエで演奏するのが好きだとか、具体的にはそういうことなのだろう。

どんどん諄くなるが、我慢してお付き合い願いたい。

あるいは、武満徹の作品をコンサートで聴いて心底感動して「やっぱり現代音楽は良い」とか思ってしまうその思考回路はどう考えるべきなんだろう。本当に現代音楽(すべて)が良いのか?(そもそも、あなたの言うげんだいおんがくってなんなのだ?)ある創作家とジャンルを簡単に結びつけて良しとしていいのか。本当は武満徹が良いと思っただけなのだろう。いや、もっと正確に言うと武満徹の『オリオンとプレアデス』が良かったのであり、それは1984年6月東京文化会館で初演された、あの『オリオンとプレアデス』が良かったとかいうことではなかったのか。

話が脱線しているように聞こえるかもしれないが、そうではない。まさにこのことが話したいのだ。ある音楽ジャンルを語るとき、もとい、現代音楽のことを語るとき、まず「現代音楽というものが本当に在るのか」ということをまず問わなければならない。Avant Gardeのことを語るときも同様である。そのようなものが本当にあるのかと誠実に問わなければならない。そもそも存在しないものを批評することはできない。

批評するなら、たとえそれが観念上のものでしかないにしても、それを便宜的に想定することでしか、ひとつの批評的行為は成り立たないのである。たとえば「大衆」を批評するなら、「大衆」というグループが想定できることを本来なら批評する側がまず論証しなければならないし、カテゴリーが有効であることを明かさなければならないはずなのである。

そして、範疇分けができたとしても、常にいかなる範疇の中にも、「その範疇の名を背負いつつ、その対象から外れる性質を持つもの(例外)」がある可能性をわきまえなければならない。たとえば「日本人論」や「アメリカ人論」という十把一絡げの論、あるいは「ヨーロッパのミュージシャンについて」というディスカッションがあるとして、日本人としてあるいはアメリカ人としての国籍を持つ者、あるいは「ヨーロッパのミュージシャン」と呼ばれる者たちが、その論理の範疇分けにすべて属しうるのかということへの疑問なのである。「属すのだ」という決めつけで「日本人」や「アメリカ人」、そして「ヨーロッパのミュージシャン」を語って善しするのが偏見と呼ばれるのである。つまり、あるカテゴリーの存在を便宜を越えて絶対的なものと錯覚しているのではないかと思われる論理なり主張があらゆる分野で本来問題とされるべきなのである。

つづく


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