音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

個別に語る必要[2]
November 9, 2000

さて、ここで筆者の主たる関心事であるところの現代音楽あるいはavant garde music について話を進めよう。実はかなり多くの人が、直感的に「現代音楽」という範疇がある条件下においては「確かにある」と感じ、その「実在」を認めることに賛同するだろう。しかしそれはどういう条件下での話なのか。どのような条件下において「現代音楽」という便宜的範疇分けが有効になり、その名で認識されている一群の作品もしくは作曲家がわれわれの検討の対象となるのか。言ってしまえば、それは特に「自分は現代音楽家」であるという自覚を持つ一群の職業的作曲家がおり、たとえば「現代音楽の夕べ」などと題して行われる「現代」作品を演奏するコンサートの興行家などなどがいて、そのために「現代音楽のファン」を自称するある程度まとまった規模の聴衆を呼び集めるとするならば、それはやはり「実在する」と言うことになる、ということなのかもしれない。疑いもなく、こうした聴衆にとっては「現代音楽」は存在してすでに久しいのである。しかしその「実在」の仕方を見てゆくのがここでの課題のひとつである。

実は、筆者は何度も似たような主張を繰り返しているが、「現代音楽」がジャンルとして存在していなければならない理由や納得のゆく説明というのにはほとんどお目に掛かったことがない。現代の、と言うよりは同時代人による作品や演奏を人々が必要としているということを理解するのには、なんの抵抗もない。現に、今日作られている商業的に成功している音楽のほとんどが、現代人のための、現代の作曲家による、現代の演奏家によって奏される、まさに<現代の音楽>なのである。だが、一方、ジャンルとして「現代音楽」なる分野が存在していなければならない理由というのは、「現代音楽」を欲する“あとからやってきた現代音楽ファン”によってというよりは、むしろ「現代音楽」を必要とする「現代音楽作曲家」と、その存在に意義を積極的に見出す(あるいは、べきだと主張する)「現代音楽」評論家、「現代音楽」啓蒙家によって、大なり小なりうち建てられているのではあるまいか。

もしそれが本当だとして、一体それの何が問題なのかと問われるかもしれない。しかしそれに対しては、そうした一連の「作品」を理解できない多くの一般聴衆が「現代音楽は難しくて分からない」と正直に感じるならば、それはなおのこと、ある種の問題として捉えられなけばならないことではないのか。とりわけその当事者であるならば、なおさら。Avant gardeの訳語である「前衛」の名で呼ばれる音楽を「やっている」と主張する人がいて、一方それらが「難しくて分からない」と感じる人がいるとすれば、その問題は同じ性格のものである。そして今日の同時代的作曲家が<現代の作曲家>であるという理由で、「あのコムズカシイ音楽を造っている人」と誤解され、個別に聴取者から省みられるチャンスさえ失うとするならば、それは紛れもなく問題であり、その問題の所在は、それを「現代音楽」もしくは「前衛avant garde音楽」というジャンルとして自己目的的に存在意義を主張する分野が成り立っている(成り立とうとしている)ところにあると言って良い。

もし、すべての現代の創作家・表現者が、「そう言う分野がこの世にある」んだという、あらかじめ存在意義が正当化された外部的、歴史的、人為的運動の助けを借りずに「私の作るものは、何かに属するものを目指したのではなくて、(仮に何ならかの様式上の影響を受けていることが否めないにしても、)自分の切実さからほとばしり出た何かを、ある様式を借りて提示しているに他ならない」ことが、偽りなき内的真実であるならば、それに耳を傾けてみる意義は、依然としてあると言えるのである。それらは、どういうカテゴリーのものであるかという判断以前に、純粋に観賞されるべく、また本質的な個人的動機に触れられるべく、あるいは作品自体の個別の価値を評価されるべく、どこかに待機しているのである。

性急な読者の観点からすれば、私はあたかも現代の音楽の存在意義をすべて否定している言辞を展開しているようにしか聞こえないかもしれないが、断じてそうではない。「現代音楽」をやっているという「ジャンルの威を借り」て、創作行為の意義が否定されていない安全圏にいて、その場所から仕事をスタートしている安易な創作家が厳然としているのだと筆者は指摘しているのであり、またそうした「現代」創作家の自己欺瞞を批判しているのである。したがって今日の作曲家すべてを否定する気など、毛頭ないのだ。さらに、現在「現代音楽」の作曲家として“不幸にも”すでに知られてしまっている創作家の作品が、すべてダメだと主張しているのでもない。これが「個別に語る必要」における大前提である。

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