音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

個別に語る必要[3]
July 10, 2001

ひろく人気のある武満徹。“保守的”な筆者さえその作品の美を認めるが、彼の作品を素晴らしいと感じるとすれば、それは彼が「現代音楽」の作曲家であるという理由のためではないだろう。彼がどのような意識で仕事をしていたのかは知らないが、彼が「現代音楽」の作曲家であるかどうかなどは、この際、彼の音楽の内容や彼の個人的創作意図とはなんの関係のない話なのである。便宜的に武満の作品を「現代音楽」と分類するのは、図書館やレコード屋さんの便宜のためだけにあると言い切っても良いかもしれない。つまり武満徹の仕事が、「現代音楽」を擁護したり、「現代音楽」の存続のために行われていたとは考えにくいのである。一方、彼の作品のいくつかが疑いもなく素晴らしいからと言って、「現代音楽界」全体の存在意義が自動的に肯定されなければならない謂われもないのである。なるほど、彼の功績のおかげで「現代音楽」分野で仕事をしている人が、生活しやすくなったという面は、ことによるとあるかもしれない(しかし、その辺りの事情を一般聴衆が理解してあげなければならない謂われもない)。

しかるに、それに続く人々の仕事の内容を個別に見ることなく、分野全体の価値を決めるなどと言うのは全く愚の骨頂である。ましてや、創作家の当事者が「分かりにくい自分の音楽」を説明するために、「(私のやっている仕事は)いわば現代音楽的なものなんです」というのは、自己正当化と弁解以外の何ものであろう? その言外に含まれている発言者の言葉の後には、「確かに分かりにくいものなんですが、とりあえず存在意義を認められたものなんです」ということを暗示しようという心理を垣間見てしまうのである。

しかし、仮にも「ジャンルとしての存在意義が認められたもの」だとして、一体どなたたちが認めたものなのか? それはすくなくとも一般聴衆ではないのである。音楽に深く関わり合っている当事者達によってだと言われても仕方がない状況なのである。一般聴衆が仮にそれまでの無関心や情報の欠如によって、ある作品の内容の良さを直ちに把握できないとしても、彼らになんの落ち度もない。

「どんなものでもある程度の受け手の努力によって深められる理解というものがある」にせよ、発信者が聴衆の受けてしまう第一印象やそれまでに築いてきた世俗的な趣味を否定することを強いることもできなければ、その無関心や無知を責める権利など何処にもないからである。もちろん、作った創作者本人が「後生だから、もうちょっと我慢して聴いてみてくれ」とお願いすることくらいはできるにしても、である。

実は、個別に検討し、個別に評価し、個別に語るということの重要性とは、むしろこうした既成ジャンルの中で創作活動を展開している、あるいは事実上展開せざるを得ない、あらゆる人にとっての福音となるはずである。それは形骸化し、はからずも先入観の源泉として大いに働いてしまう既知のカテゴリー・イメージが、ある特定の聴衆を再度呼び止め、ある傾向を持った趣味人の一群を集める働きをする一方、大部分の新しい聴衆を拒む機能として、むしろ働いているからである。

便宜的な範疇分けであるべき「現代音楽」が、あの騒々しく不協和で、あるいは騒々しくなくともきわめて抽象的かつ曖昧な「あの一連の音楽」を指すという、多くの人が感じている不幸な認識から人々が脱却するのを助けることができるとすれば、ある種の聴くに値する勝れた作品が、実は「あの現代音楽」の中にさえあるのだと人々が認識を新たにするかもしれない。そうなれば、今日の未来に残すべき遺産という名に相応しい音楽全体の再興が可能かもしれない。しかし、それは「現代音楽」や「古典音楽」の再興である必要はないのである。

そして、専門家によっては一聴して保守的作品としか捉えられない、技法的に何らの真新しさを持たないある種の「新曲」や「古典の再演」の中に、注目すべき音楽的エッセンスがあることに気付くかもしれないし、同時代的作曲家や演奏者の中にも実は聴くに値し、また多くの人に到達しようとして、何か重要な「内容」を発信していることに気付くかもしれない。

逆に、“ジャンルの威”の借りて、その「分野」において大いに注目を浴びている専門家が、これからは、より本質的かつ切実な仕事を始めるかもしれないのである。この話は、「現代音楽」に限った話ではなく、いわゆるジャズだろうと、ロックだろうと、バロックだろうと、その分野とその分野を無条件支持するファンの評価に甘んじることなく、創作家として本来的な仕事を始める端緒となるかもしれない。

そして、即興者もこれと無関係ではあり得ない。即興(improvisationと呼ぼうが何だろうが関係ない)をひとつのジャンルとして捉えがちなわれわれ(リスナーはもとより、わけても演奏家)が、“あらかじめその存在を正当化された安全圏”からanother one of "improvised" worksを発信して好しとするのではなく、まさに生まれて死に至る「個別な生き様」を、演奏を通じて体現しなければならないのである。

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