音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

「現代芸術」が“高尚”たらねばならぬ理由(わけ)
November 21 - December 11, 2000
 
English version

無論、これはちょっとしたゲームのようなものだと思っていただいて全然結構である。

どうして「現代芸術」が“高尚”でなければならないか、それを信じる人の立場に立って想像してみた。およそ完璧とは言いがたいが、だいたい次のようになるかもしれない。

「聴衆や一般鑑賞者の理解する能力に併せた創作表現は“大衆に媚びる”ことを意味する。大衆に媚びると、表現はより簡単で理解しやすいものに向かう。その結果、より高みへ至ろうとしない芸術は退廃する。芸術は、常に“個人”の大衆に媚びない超然とした創意工夫によって刺激され、一連の新しい創作物が生み出されたことにより、その進歩・発展が達成されてきたのである。」

こういった辺りであろうか。さて、この中にあるほぼすべての部分を懐疑・論破することができると私は考えた。ところで、この論全体が、「大衆」や「聴衆」という抽象的な集団を想定することでしか成り立たないことも一応先に断っておく。大衆論や聴衆論は別の機会に譲りたい。

まず最初の「聴衆や一般鑑賞者の理解に併せた創作表現は“大衆に媚びる”ことを意味する」というのは、ある一つの事実を「価値判断」を濃厚に含む表現に置き換えただけのハナシで、なぜ「媚びる」ことを意味するのかという理由は示されていない。まあそれはいいとして...

次に、「...媚びると、表現はより簡単で理解しやすいものに向かう」についてであるが、たしかに聴衆を意識すれば、“表現が理解しやすいもの”になるかもしれないが、それにどんどん際限なく傾斜していくとは限らない(また仮に傾斜していったとして、それが大衆にとって「退廃」の問題であり得るか、という問いもある)。たとえば音楽について言えば、だいたい(良くも悪くも)大衆に向けて表現された機能調性にのっとったリヒャルト・シュトラウスの大部分の音楽やマーラーの交響曲が、それ以降に作られた楽曲に比べて構造的に単純であるとはまったく言いきれない。ましてやバッハに至れば彼が成したフーガの極みは、現代の「進化・発展」したと言いたげな作曲家によってさえ、まだ越えられていないのではないかと思われるほどである。ただ、音が抽象的でも曖昧でもなく、隠蔽すべき本質の欠如がない分、シェーンベルクやヴェーベルンに比べて比較的理解しやすいに過ぎない。また理解しやすいものがそれ自体で価値が低いということにも論拠がない。

さらに「より高まろうとしない芸術は退廃する」であるが、私は「大衆に理解されよう」としたために「退廃した芸術」の例を知らない。大衆に理解されようとした結果であるかどうかは分からないが、一歩踏み込めば、確かに退廃したと思わせるような「創作的表現」が今日の社会に散見されるのは認めても良いと思う。しかし、そのために芸術そのものが退廃したとは思わない。芸術は芸術としてそのまま伝統的職人の努力や局部的・個人的な伝統世界への突発的かつ爆発的な理解によって復活・維持される*一方、「退廃したもの」を必要とする人によって「退廃的な」創作表現が消費されるだけの話である(そして私も時と場合によってそれを大いに必要とするひとりである)。つまり、生産される創作表現の総量は、「芸術革命」以降の一般人の広い参加が可能となったために不可逆的に増えて行き、その中でも芸術を特別なものであると思う人の割合が総人口に比べて低くなることは避けられないだろうが、芸術自体は無傷のまま残るのである。(また必要に応じて何度でも復活するのである。)であるから、希望的観測によれば、何の心配もないのである。

* だいたい、「現代芸術」の支持する人がそうした伝統的芸術の行く末を憂慮しているようには一向思われない。彼らの関心は「自分の属する現代芸術界」の行く末、すなわち発展か没落か、なのである。

また、修辞上の問題だが、芸術は「高みへ至ろう」としない。「高まろうとする」のも「高まろうとしないために退廃していく」のも人間自身である。個別にある人物をとらえて、あるいは自らを省みて「それに当てはまらない」と思えるのなら、なにも憂慮する必要はない。芸術の退廃を心配する前に自分自身の「退廃」を各自が心配すべきなのである。

そして最後に、「芸術は常に個人の大衆に媚びない超然とした創意工夫によって刺激され、一連の新しい創作物が生み出されたことにより、その進歩・発展が達成されてきた」という部分にこそ、実は最大の課題が存するのである。まず、芸術は進歩・発展する必要がない。まずこの点で先の論旨は間違っている。ひろく進歩・発展が必要とされている(いたかもしれない)のは、科学技術であり資本主義経済である。(そして、この科学技術・資本主義の「進歩・発展」の結果さえもわれわれはまだ正しく評価できないでいる。)そも、だれも芸術の進歩・発展など望んでいなかったはずなのだ。おそらく、「進歩」を望んでいるのは現在では「現代芸術の世界」に属する人々であり、伝統世界の意味を捉え損なった「退屈した」一般の人々であり、この進歩・発展をすべてのものに適用させるのが無条件的に正しいと信じる「向上心のある」進んだひとびと特有の性向だと捉えられるべきである。

卑近な例を引こう。たとえば理想的な人間関係や家族関係というもの、あるいは何が美味しいものと感じるか、こういうことが歴史的に進歩・発展するだろうか*。あるいは自発的に進歩・発展する「必要」があるだろうか? 百歩譲って倫理観が変化することが必要だとして、それは社会の大きな変化に引きずられて変わっていかざるを得なかったに過ぎず、倫理自体が進歩・発展を望んだわけではない。翻って、なぜ芸術が進歩・発展するべきなのだろうか? そう主張する人には、われわれの対象とする芸術の意味を理解した上で、そうであることの根拠を示して貰いたい。いや、個人による創意工夫によって達成されてきたものが、確かに創作表現の中の特定の局面ではあったかもしれないが、それを以て芸術の進歩・発展が図られたというのは、個人の重要性をとりわけ過大に評価しようとする現代に特有の現象なのではあるまいか。むしろそうした個人主義によって支えられた「個」の発想や創意がもたらした結果が現在われわれのまさに目撃している今日的状態なのであって、その状態を無条件に肯定することでしか理想を語れないというのであれば、時代の批評精神を矮小化することを意味するだけである。

* このようなことを述べると、「食の文化は常に発展・進化してきた」等の発言が予想される。彼らはつまり、文化としての「食べ物を作る技術」が向上すると共に、大衆自体の舌が共に肥えてゆき、全体として発展成熟してきた、云々ということが言いたいわけだ。しかしそれはここで取り上げられているところの芸術の「進歩」とは関係がなく、芸(エンターテイメント)としての食文化が大衆とそれを供給する側との両方で同時的に洗練していったことを示しているに他ならない。また、それは大衆の求めるところに敏感で、また大衆を歓ばせることを第一義的に意識した職人の態度をむしろ表しているのであって、職人が大衆の理解できない“新しい発想”の深遠なる食文化を一方的に押しつけ進歩・発展させたことなど意味しない。

もし、音楽の世界で時代がルネッサンスからバロックに移行し、古典、ロマン派と来て、それが「現代音楽」へ至ったのが「正しい」進歩・発展であると言うのならば、そのようなことはむしろ起きなかった方が良いと主張する者がいても可笑しくない。

さて、いわゆるクラシック音楽というものの発展史だけに囚われることなく広く音楽の創作表現に目を向けてみよう。すると、あらゆる音楽が近代以降、「発展」してきたことが分かる。非常に単純な言い方だが、もし「England、Scotland、Irelandのtradやfolk musicがアメリカに渡ってcountry & westernを産みだし、南部の通俗的教会音楽であるgospelがbluesを生み出し、それらが混ざり合ってrythm & blues (R&B)やjazzを生み出してきた」という歴史観に仮にのっとると、R&Bはその後soul、rock & roll(あるいは単にrock)を産みだし、それはhard rock、heavy metal、glam rock、whatever! さえ生み出した。これらは互いに影響を与えたり受けたりしながら、さらにはdisco、hip hop、house、techno、acid jazz、rap、whatever! あるいはpunk、progresive rock、jazz rock、chamber rock、gothic rock、new acoustic、whatever! を生み出した、となるわけである(フウ〜ッ)。今ではhip hop調のリズムに乗ってheavy metalばりのギターやtechno風のエレクトロニクスをフィーチャーする一方、リードボーカルは完全にrapそのもの、なんてものもある。これらはまぎれもなく、発展と呼ぶにふさわしいことであると思われる。そして、かれらは一度も聴衆の趣味を無視したことはない。聴衆を完全に無視したポップスなるモノがこの世に存在するとすれば、それは「われわれのだれも知らない種類のポップス」であるはずなのだ。発展が正しいモノでありうるのは、「繰り返し」や「退屈」を最大限避ける必要のある、暴走・膨張する資本主義社会の中の消費される文化においてのみである。

さて何を「退廃」と呼ぶべきなのか? それを聴かない者にとってはある種の音楽は「退廃」あるいは「退廃の結果」であると呼ぶであろう。かつてBeatlesを「退廃」と呼ぶことができたわれわれが、ある種の音楽を「退廃」もしくは「退歩」した結果であると考えたとしても不思議はない。たとえば、ある時期、いや今でも多くの「音楽愛好家」の人々によって音楽とはどうしても聞こえなかったたとえばrap "music"が、「音楽の退廃した姿」であるようにしか思えなかったのも故なきことではないだろう。しかし、rapが現れたことによって、soulやjazzやrock、ましてやclassical musicは消えてなくなったわけではなく、スタイルに関してはrapを「格好の良いもの」と気付き遅蒔きながら「自分たちのジャンル」に取り入れる者が出て来る、というようなことはあっても、それ以前から続いていた音楽ジャンルの存続に関して何の影響も与えなかった。つまり、五十歩譲って、仮に「音楽の退廃」がある末端のジャンルにおいて生起したとしても、音楽文化全体の存続に何らのダメージも与えなかったのである。

逆に言えば、「現代音楽」を芸術であるとしてその進歩・発展に誰かが尽力しても、古い音楽や伝統芸能はそのために置き換えられて消えることもなければ、一方、通俗的「芸能」たるpop cultureも消えてなくならない(なくなったら困る!)。そして、古い音楽や伝統芸能が無条件的にポピュラーなモノである必要もない。その伝統表現を必要とする人が最後のひとりとなろうとそれを保存するからである。そしてある日「現代芸術」が存続できなくなったとしても、現代の市場によって売買されたり消費されなくなって淘汰されただけの話である。これが消費文化たる「発展をめざすべき芸術」の世界での矛盾なき評価である。また(大衆・聴衆という言い方を避けてもいいが、)専門家ならぬ“一般鑑賞者”によって選択される以上に公正な評価というものが「performance artsたるべき音楽」にあるだろうか。(これはこれで議論の余地はある。)

私が言いたいことをざっくりまとめる(?)なら、次のようになる:

発展をめざすのなら、消費文化の適正な評価を甘んじて受けよ。発展を拒否した“高尚・孤高”な「芸術」でありたいのなら、他の伝統芸能と同じ運命を甘んじて受けよ(どんなにそれを支持する人口が減っても、それを必要と思う最後のひとりのために手弁当で続けよ、嘆くな。なぜなら、“高尚”なる存在理由があるのだから、大衆に理解されなくてもしょうがないではないか。だってそもそもそれが“高尚”であるってことだったんでしょ?)...

である。

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