音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

音楽は宗教*に先立つ
December 5, 2002

* ここで言及される「宗教」とは、すべて、信仰の本質と関わりのない、最もひろく知られている「人間の組織としての宗教団体」を表す記号以上のなにものでもない。


楽体験が宗教体験に似ている、のではなくて、宗教体験が音楽体験に似たのだ。事実はと言うと、「宗教」が音楽から諸々を習ったというのが正しい。もっと噛み砕いて言うとこういうことだ。真の音楽体験が、宗教のもたらそうとしてきた至高体験に似ているというのは、主客転倒であり、そもそも宗教体験というものが音楽以外の様々な方法を通じて目指した疑似音楽体験だったというだけのことであり、「宗教」の方が常にその曰く謂いがたい体験の象徴たる音楽に、学び続けていたという話なのだ。

つまり、宗教音楽などということば自体がおかしなものだ。逆に、音楽というものが宗教的でないことが、むしろおかしな話なのである

連打される太鼓のつくるビートのうねり、一定調と一定リズムで持続される声明や読経。大伽藍に響くオルガンや聖歌隊の創り出す調和や旋律。こうした宗教儀式を占める主たる要素は、<音楽的>なのではなくて、正に<音楽の本質>そのものなのである。そして、西洋の音楽史の伝えるところに拠れば、音楽は教会で発生・発展したのである。それが正しければ、カテゴリーとしての「宗教音楽」こそが西洋音楽の本流であるという言い方が十分成り立つのだが、しかし事実は違う。西洋音楽がキリスト教会において発展したのは事実だが、音楽が発生したのは「宗教」の発生に断じて先立つのである。考えてみれば当然のことながら「宗教音楽」として知られている音楽の誕生に先立って音楽は存在した。そしてその本質的に宗教的性質のために、音楽は宗教そのものの成立の前提となったのである。

また、組織化された音楽のあるところには、組織化された人間の宗教がある。あるいは組織化された人間の宗教のあるところに、組織化された音楽がある。

音楽の中に宗教的な題材を扱ったものがあるのは事実だが、以上のような音楽の本質的な性質からして、音楽がわれわれの知る限りでもっとも「宗教」的であるとしても、それは当然のことなのである。さらに、「宗教」的な役割を本来的に持っている音楽が、単に宗教的な効果だけを発揮するに留まらず、宗教を題材として採りあげ、宗教自体の説明を始めたのである。それがわれわれが知っている「宗教音楽」である。しかし、宗教的効果の醸成を約束するのは、こうした「宗教音楽」だけの特権ではない。すべての音楽が本来持っているべき効果であり、むしろそうしたものだけを<音楽>と呼ぶべきなのである。

そうした<音楽>体験こそが宗教体験である。だからこそ、ほとんどすべての宗教儀式の中核に音楽/音がありつづけた。宗教に音楽が見出せるのは、従って偶然ではない。音楽は宗教に利用されているようにみえて、実は音楽が宗教を利用して発展した。政治や美術創作など、あらゆる人間の諸活動も、その点で似たようなものかも知れない。「宗教」から<音楽>をとり除けば、それはもはや「宗教」ではないが、<音楽>は「宗教」なしでも<音楽>たり続けるのである。(さて、どちらがどちらを利用したのかはこれで明らかであろう。)

その宗教の本質的要素である<音楽>だけが生き残り、宗教が共有し伝えようとした本質は、宗教が存続できなくなった後でも、<音楽>が伝え続けることになる。今まさに、音楽会、ライブなどが宗教的様相を呈しているのも偶然ではないのである。あれはかつて宗教が持ち得た宗教的体験を、まさに現代のわれわれの前に具現化しようと努めているのである。

したがって、われわれの知る限りにおいて音楽に見出せる“宗教”性は、音楽の本質である。また、最も重要な<音楽>の本性である。そして、成功した宗教もたらす至福感の<音楽>性(宗教の目指す音楽的トランス)は、そのためにこそ説明できるのである。

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