音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

音楽と宗教の双方をおとしめる擬似宗教的パフォーマンス
(あるいは、情緒的な宗教的帰属意識を高める“サウンド・パフォーマンス”の徹底批判)
July 22-24, 2003

っておくが、これは立派にライフワークとして音楽に取り組んでいる人々の、ある特定の音楽表現の手法に対しての批判である。もうすこし具体的には、あらかじめ用意してきたプリプロダクト(半完成品)を「ライブ」演奏の主たる要素(あるいはそれに準じる要素)として使うことに対する批判である。そもそもそれをライブと言っていいのかどうかさえ疑問を提示することが出来よう。しかしそれはすでに行われていて、日増しにその方法はライブ手法の選択肢のひとつとして認知されつつある。そもそも手法批判である以上、本稿の対象は生き生かされるための「生存音楽」にむかうのでなく、「手段としての音楽」に関する批判であるとも言える。さらに、この批判はすべてのそうした(いわばカラオケトラックを利用する)疑似ライブ的アプローチを採る音楽表現者すべてに向かうものではなく、とりわけ宗教性との兼ね合いにおいて、分けても、その音楽の宗教的側面を肯定的に評価しようという立場において、どうしても折り合いが付かないものである、という批判的観点を提供するものである。すなわち、きわめて特殊(specific)な音楽の在り方に対する批判なのである。

音楽が宗教儀礼の一部として機能したという歴史的事実は敢えてここで繰り返すまでもない。(むしろ、音楽は「宗教」の成立に先立つ、あるいは同時発生的なもの、という論さえ筆者は展開している。)音楽の宗教性とは、一度述べているが、音楽がすぐれた音楽であるためのむしろ前提である。(本稿は簡単にまとめると、「本当の音楽は生の演奏行為でしか体験できない 宗教的神秘体験を期待するならそのような生の身体行為を通してしか実体験できない それは聞く方も演る方も同じだ」みたいな話である。)

最初に辛口批評をさせていただくと、一見しても宗教的儀礼として認知できるようなカタチで音楽を奏すること自体は、単なる表面上のファッション(アティテュード)に過ぎない。そのようなカタチで音楽を扱うこと自体が、実は音楽の本来の機能をまさに過小評価しているのである。そしてそれ自体が、音楽の本質への表現者本人の無理解を露呈させることにもつながる。こういうことは、例えば、そもそもスタジオに籠もって作品を作っていた創作者が突然パブリックに出て来てパフォーマンスをすることになった際に起こりがちなことだ。それに無自覚であれば、パフォーマンス全体が子供だましの舞台装置に堕する可能性もある。

音楽がそもそも宗教的な儀礼であったことを言葉で主張すること自体に大した害はない。しかし、それを主張する者がライブ・パフォーマンスにおいて中途半端なデモンストレーションをするならば、音楽の「宗教性」の程度をそのパフォーマンスの実態によって貶めることにつながる。そうなってしまえば本来あるべき音楽のためにも、はたまた宗教(信仰)のためにさえもならないのである。筆者は音楽表現者の言葉で伝達可能な理想や哲学そのものの正しさ自体に異議を提出するつもりはないが、そうした音楽の儀礼性に関する積極的な主張者が、音楽を通じて何か表現するならば、その音楽やデモンストレーションの方法に対する批判は場合によって生じるだろうし、必要に応じてそれを甘んじて受けなければならないだろう。

音楽が音楽自体で自立的な価値を持つという理解や立場から踏み出て、「何かのための音楽」という方法としての価値を論議するならば、批評の対象になっても仕方がないのである。

音楽における真の宗教性というのを、パフォーマンスにある種の宗教的(あるいは異教的)様式を含めて再現しようというのは、サウンドをフィーチャーした「総合的なパフォーマンス」としてはあり得るだろう(極端な事例だが、今でも教会に行けばそれはサービスserviceと称して日々行われている)。しかし、やり方次第によっては人の現前に出現するのは単にパフォーマンスにおける情緒的な「宗教性」に他ならず、宗教の本質ではない。ましてや音楽の本質でさえない。音楽の奏者が宗教的なコスチュームに身を包むことは、手段としては考え得ることであるが、奏される音楽の本質を根底から変えるものではない。手段そのものではなくて、そのパフォーマンスの中身(質)次第によっては、「その他諸々の舞台装置」がかえって音楽の中身への信頼性を損なうものになりうるのだ。

ときに、質の低い音楽が質の高い舞踏を可能にすることも、質の低い舞踏が演奏者の質の高い音楽を可能にすることも、どちらも考えにくいことである。少なくとも、前提として相互が影響を与え合う事を認めた上での真のコラボレーションを両者が目指すならば。ただし、舞踊の多くが音楽に依存するのとは異なり、音楽というのは単独に存在しうるから、舞台装置の在り方から全面的な質的影響を被ることは逆に余りない。ただ例外的に、舞台装置のもっている象徴性が、拙く奏される音楽に勝ってしまうと言うことは十分にあり得ることではある。だが、それでさえ影響を被るのはむしろ舞台装置の芸術性の方であり、音楽の本質は無傷のままである。つまりパフォーマンス全体の劇的効果にさまざまな舞台装置が影響を与えることがあっても、そのような要素のために、音楽の質自体は、良くも悪くもならない。

真に身体的鍛錬を経て、ある精神的境地の表現を可能とするレベルに達している舞踏家は、音楽の存在なしでも十分な身体表現が可能かもしれない。そうした舞踏家が自分の創作に付随する音楽をあらかじめ完成している録音作品を用いて表現すると言うことは十分にあっても良いことである。しかし、その場で作られていく音楽との有機的な進展と必然的な展開をナマの音楽と(ナマの)舞踏の両面で試みようとするならば、「出来合いの音楽」から一方的に感化を受けるというカタチで音楽と共演するという方法は最善の選択肢ではありえないはずである。それはよく練り上げられたコリオグラフィーでカラオケ音楽を伴奏にフィギュアスケートを演じるようなものではあるかも知れない。しかし、それを真のライブアートと呼ぶべきかどうかは別の問題なのである。それが大変高度な技術を伴うエンターテイメント(芸能)の類であることに違いはないのであるが。

一方、録音することを中心に音楽制作することに関しては、その方法そのものは評価できるものである。作り上げる音楽自体に、作曲のように意図して含めようとしているすべての要素を具体的な音の形で入れ込もうとしているのであって、その手法自体を否定することは出来ない。録音創作というのは「作曲」のひとつの方法であり、十分にその地位を確立している分野でもある。ただ一点だけ言えることは、出来上がってしまったものは、もう形を変えることの出来ない彫像のようなものとして存在できるだけだということである。

その意味で、音楽を伴うパフォーマンスを通じて宗教的な体験を期待しようというとき、出来合いの音楽やサウンドトラックを使う方法は、最善のものとは言いがたいものとなるだろう。そこには生ける身体によるダイナミズムを欠いているからである。宗教的な神秘体験は具体的な身体的現象である。それが脳内に発生するある種の麻薬のような化学物質によるものか、天使が降臨して人にそのようなリアルな体験をさせている...のか、真相がそのどちらであるにせよ、それは人間の肉体を経由して精神が受け取る具体的な現象である。である以上、そうした特定の肉体の運動(静止も含む)を伴わないカラオケの伴奏によって真の宗教的体験が奏者と聴者の両方によって共有されることはほぼあり得ないのである。

宗教というものの本質は信仰の素振りの中にない。このようなことは、祈りや座禅や瞑想などの実践をしている者や、宗教に対する思索の真摯な取り組みをしているたいがいの者ならば、賛同するだろう。むろん、宗教=信仰、などと簡単に括れないが、本来、信仰こそが宗教の本質であるという原点に回帰するならば、便宜的にそのように置き換えることは出来るだろう。一方、どう少なく見積もっても、「宗教」というものがつねに人間の集団的組織や運動(特に民族主義や国家権力)と不可分に結びついてきた歴史*というのはある。だからこそ信仰(や幸福)と真に結びついていない素振りや人為的な選択としての宗教を「宗教」と表記して区別する必要が出てくる。真の宗教とは個人的な体験と信仰とにこそ結びついているのである。

* 脚註別ページ(こちら)を参照

個人的な信仰とは「visionary」個人としての体験を基盤とする。あるいは個人的な神秘体験に基づくと言って切っても良い。人に告げられるがまま、あるいは人の手によって書かれた言葉を字義通り信じることもひとつの信仰のあり方かもしれないが、それは邪悪な信仰であるという意味で、「信仰」と括弧付きで呼ばれるべきものである。それは事物に対する批判的検証を放棄した態度である。ひるがえって真に優れた音楽というものは、それを聴く者や奏する者の中に信仰へと導きうる神秘体験をもたらすのである。私はその体験が本質的に宗教が歴史的にもたらしてきた、ある体験と本質的に変わらないものと把握している。だがあくまでも個々人の内面における出来事である以上、そのことを他人に実証することは出来ない。ただし、宗教的な神秘体験と音楽を通じた神秘体験の両方を経たことのある人にとっては、それはあまりに自明のことなのである。

譬えは悪いが、純粋に音が精神に与える効果の面から捉えるなら、大音響のアシッドジャズやハウスミュージックの録音の中にさえ、音楽の宗教的側面は見出される。創作者達が正面切って宗教的体験の生起を目指していると宣言していないだけで、そうした反復されるリズムなどの中に人間の宗教体験の本質が実は潜んでいる。「き真面目」な自称宗教者であるほど、情緒的にそのようなものを宗教体験と呼びたくないだけの話である。しかし、インスタントなトランス状態を誘発させるための道具として、ある種の反復的音楽は新興宗教団体の儀礼の中でさえ使われているのである。それだけ、音の持っている精神への影響力というのは強いのである。

これもまた譬えは悪い。だが、へヴィメタルのライブ会場などに行けば分かることだが、彼らをグループや音楽に結びつける要素として非常に大きな影響力を持つものにファッションがある。鋲の突き出した革ジャンや身につけられた鎖、そしてスキンヘッドや過剰なピアス、髑髏の死に神をあしらったおどろおどろしいTシャツなどはその類である。そうしたものを身につけてライブの大音響に身を任せるというのは音楽を利用したひとつのアティテュード表明であり「儀礼」に参加していると言える。彼らはそのスタイルで自分たちの存在をひとつのカタチの中に収め、あるロックバンドによって束ねられた一集団への帰属意識を高める。その点で言うと、へヴィメタルというのは単なる音楽愛好の対象としての音楽カテゴリーを超えた、ある種の社会的態度表明であり政治的な運動でもある(だからといって彼らが何かを変革しているようにも見えないんだが)。彼らは人間の暗黒面や死などの観念に惹かれており、邪悪なものに帰依していることをためらわずに表明する。われわれが彼らに共感する必要はない。だが大事なのは、彼らが音楽の持っている効果の重要なひとつをよく理解しているということであり、彼らはいわば音楽という儀礼を通じて悪魔的なものとコミュニケートしている(つもりな)のである。行儀の良い古典音楽愛好家よりも、むしろ彼らの方が音楽の持っている「宗教」的側面をよくよく分かっているとさえ言えるのである。

このように、音楽の表現者がある種のファッションを取り入れてライブ活動をするということは、宗教(儀礼)的なもの(あるいは疑似宗教的なもの)に対する窮めて情緒的な関心を反映したものに過ぎない。音楽の本質にだけ興味を持ち追求をしている人は、どのような恰好で演奏するのか、どのようなファッションで音楽を聴きに行くのか、ということに意を介さない。演奏に集中しやすい機能的なスタイルになって行くはずである。もっと言えば、そのような人々こそが本当の意味で実存的且つハードコアな音楽との関わりをしているのである。そしてむしろこのような控え目な音楽追求者の努力によってこそ、多くの人々に「原体験としての宗教的音楽体験」が示されきたのだし、人々を救済してきたと言うことがあるのである。われわれ音楽家が真の音楽家であり続けようと願うなら、われわれはその点で謙虚であることを忘れてはならない。

そう。信仰につながる宗教的要素とは、織りなされる音楽自体の中に、そしてそれを織りなすべく打ち出され減衰していく音のひとつひとつの中に宿っているものであり、そしてその音の宇宙を聴き届けるわれわれひとりびとりが、個々に発見していくものなのである。あくまでも信仰が、集合的動機からでなく、個人の内面に宿るものであるのと同様に。


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