音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

「音楽に、指揮者が必要か」という設問
June 19, 2001
 
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ここに、「音楽に指揮者は必要か」というテーマがあったとしよう。結論から言うと、これは設問の立て方がおかしい。と云うか、設問としてまだ不十分 (insufficient) である。このような質問には応えようがない。設問としてもっと有効にさせるためには、たとえば「あなたの音楽に指揮者は必要か」とか、「あなたのグループに指揮者は必要か」とか、「あなたのそのプロジェクトに指揮者は必要か」にしなければならない。もちろん言うまでもなく「あなたの」すなわち「あなたの理想とする」という部分がミソなのである。そして、ここにも目的と手段というあるふたつの対象の間で相対的に変化する判断基準を見出さざるを得ないのであり、ひとつの簡単な答なるものがないことに逢着するのである。

いつも同じ事を言っているようだが、われわれは、安易な一般公式を導き出そうとする誘惑に負けずに、あらゆる課題を「個別かつ具体的」に検討することが出来るだけなのである。


ニューヨークにオルフェウス室内管弦楽団 (Orpheus Chamber Orchestra) という主に「作曲された楽曲」を演奏する(要するに古典を中心とした楽曲を再現演奏するのを旨とした)グループがある。結成後十年ほど経った、80年代には結構話題に上り、日本にも何度か来たと思う。彼らがある程度有名になったのは、そのよくトレーニングされた演奏技能ばかりでなく、メンバーの若さや、何よりも「中規模アンサンブルでありながら指揮者をたてない」演奏方針に起因するものがあったであろう。たとえば、もっと編成の小さいモーツァルトの『13管のセレナーデ』のような曲でも指揮者をしばしば立てて演奏することを考えれば、これはあくまでも楽団のポリシーとして、そしてタテマエとして、指揮者に依存せず自分たちのイニシアチブで古典楽曲を解釈し、思うように演奏しよう、という態度表明であったと考えて良いだろう。

もちろん実際問題、曲によって“ローテーション”するコンサートマスターないしコンサートミストレスが、事実上のキュー(アインザッツ)を出したり、ある種の“オーバーアクション”やアイコンタクトによって常に全楽団員に対し、シグナルを出し続けているという点では、「指揮する者が皆無である」ということは厳密には言えないのであるが、専門の指揮者ないし音楽監督を外部から呼び、その人の指揮者としての実力なり、権威なり、音楽解釈の信頼性なりに、自分たちの音楽活動を委ね切ってしまうことなく、もっと自主的に音楽創りたい*と言うことがあったのだと思う。そして、あんがい何よりも自分たちで話題を創成し、かつ「ジョブ」を作りだすことが大事だったのだろうと思う。なぜなら彼らの多くが手に勝れた職を持ちながら、音楽家としては定職を持たない/持てない、いわゆるフリーランス・ミュージシャン達だったからである。

*その純粋に音楽的な成果については、彼らの気高いambitionとは関係なくあれこれ言うことが出来るが、それについてはここで深く検討しない。それについては、たとえば「一体誰の音楽なのか分からない。楽団の顔が見えない」などの好き嫌いや方法に対する賛否両論があるだろう。そして、彼らは予想通りというか、話題を創り一定数の観客を動員することが出来たのである。

指揮者の仕事というのは、本番中に楽団員の前に立って手や腕を振り回し拍を打ち出すことではなく、古典楽曲に関して言えば、音楽の解釈やどのような筋道で“計画された音楽”を進めて終わらせるかという、交通整理のような役割も果たしている。そのためのリハーサルの際の指導をするのが彼ら指揮者の役割であって、その仕事のほとんどすべてが、コンサートにおいて人前に燕尾服を着てさっそうと現れる前に終わっているのである。

そしてなによりも、音は出さぬまでも、指揮者は音楽家として、絶対の忠誠を誓う兵隊のような一団の音楽家(あるいはそれに準じた人々)を駆使して、自分の音楽を作りだしていく、まさにその中心人物であり、現代においては、彼自身の音楽を通じての自己実現を図ろうとする独裁者である(これに善悪の判断を下さない)。もともとは、杖で床を叩き、メトロノームのようにビートを出して楽団全体がアンサンブルしやすいように導くため、また顔のある楽団の長として全体の「指揮」に当たったわけだが、それは音楽の質をある一定のものに維持するためのある種「必要悪」のような側面もあっただろう。しかし音楽家として大きな編成の楽曲を滞りなく演奏させるための音楽監督の職 (occupation) となったわけである。

そのようなポジションが、歴史的事実として成立した以降は、そのポジションを求めて音楽家を目指す者も出てくる。話を元に戻すが、指揮者になることを求めて音楽の世界に入ってくる音楽家に対しては、「音楽に指揮は必要か」という設問自体がナンセンスである。もちろん「彼の考える音楽に指揮は必要」なのである。そして、先程の「オルフェウス」に関しては「彼らの考える音楽に指揮者は必要ない」とのポリシーを採ったのである。

結論から言うと、ある種の音楽(たとえば木管八重奏団)に指揮者が必要か否かというのを、たとえばそのアンサンブルのサイズなどから一般化し、定式化することさえできない。指揮が必要なときもあるだろうし、そうでないときもあるだろうからである。そして、指揮者がいるから、あるいはいないから、ある種のアンサンブルが旨くいったかどうかと言うのも、なかなか定式化は出来ないのである。(その理由は、こちら


そして、同じ事が「即興に指揮者が必要かどうか」という設問に関しても当然言えるのである。「即興音楽が、“かくかくしかじか”のものであるべきだ」という明確かつ最終的なイメージがあれば(そしてそれを信じられるのであれば)、そのために指揮が必要かどうかが、おのずと決まってくるだろう。要するに、即興というものが十人十色でさまざまなものである以上、「即興に指揮が必要か」などと言う設問自体が漠然とし過ぎており、成り立たないのは明らかなのである。

しかしながら、「あなたの即興に指揮は必要か」と言い換えることで、限定的・条件的な設問として有効化することは可能である。まずは、一体、あなたは即興に何を求めるのか。これである。即興はその他の音楽もそうであるように、ひとつの手段であると考えるなら、さまざまな目的のさまざまなカタチの即興があるはずであり、それらのそれぞれに「指揮者を立てる」ことが、適切であるか否かの検討が可能となるのである。

何度でも言うが、筆者にとって、即興は「ある種の結果」の招来のためには有効性が高く、またそれ自体が楽しいモノではあるが、唯一絶対の“存在を正当化された自己目的的な善”であるとは信じてはいない。即興を手段ではなく、そのような目的化されたものと信じがちな人にとっては、その「“即興”にとって、指揮が必要であるかどうか」という設問は、それ自体で設定可能な疑問であり、またその応えも自明なのかもしれない。しかし、私にはその設問のあり方自体に容易には有効性を認められないのである。(関連文書へ


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