音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

「あなたの即興に、“指揮”が必要か」という設問
June 19, 2001
 
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即興音楽と指揮との間の関係の中で指揮者の存在の可能性を考えてみる。これは、筆者にとっても、自ら主宰する The Committee Of 39 の活動などで、一度ならず検討せざるを得なかったひとつの課題であるから、何ら真新しい話でもない。ただし、自分がその手法を取り入れるかどうかと言うことは、自分一人で決められる問題ではないので、グループ内で慎重に検討することもあるかもしれない、とだけここでは述べておこう。

前述したように、指揮者の採用の是非に関しては、無条件にその結論を出すことは出来ない。「即興音楽というものはこうだ」などと一元的に捉えられてすむものでない、あくまでも多様かつ相対的な価値を持つものである、というのがその理由だが、即興音楽に求める結果や即興音楽を通じて到達しようとしているゴールが明確な人にとっては、「即興に指揮は必要か」という設問に対して応えるのは、むしろ容易だろう。

その辺りの想定される可能性について考えてみることにする。もちろん、下に述べる可能性というのは、話を簡単にするために単純化してあるのは言うまでもない。

(A)集団による即興が、あらかじめ打ち合わせなどで決めておく最低限のルールなどを含むいかなる制限をも拒否するという前提で始められたものであるなら、全体をコントロールしたり影響を与えたりする指揮者を立てることは、とりわけナンセンスであろう。即興によって出てきたモノの結果(善悪)をジャッジせず、すべてをあるがママのものとして受け容れるという基本方針で、即興をしようとしているのであれば、その出来栄えをコントロールするような要素(指揮者)を、その集団に持ち込むこと自体が目的に反しているからである。だいたい、そのような結果のすべてを受け容れる即興演奏者の側に、音を直接出さぬ指揮者から積極的に期待するものがないだろうことは、予想できる。

(B)即興を音楽演奏のための中心的な方法として採用しているものの、それに完全には依拠しないという考えで集まっている演奏家のグループというものを想定することもできる。彼らにとっての関心事とは、単に出てきたモノをあるがママのものとして単に受け容れると言うことだけではなく、客観/主観を問わず、音楽の“善し悪し”というものが便宜的にあると想定し、少なくとも自分(達)が「音楽的に満足できる」結果を演奏から期待しているというような場合。こうした集団は、即興しながらも、あらかじめイメージされたある音楽の像を目指して演奏をしているわけであり、限定的な演奏の制御やプランなどは即興演奏を損なわない(あるいはむしろより良くする)ものと考えている。こうした集団にとっては、グループのある特定の人物がキューを出したり、アイコンタクトをしたり、場合によっては「指揮」をするものが出てきてもおかしくはない。もちろん、指揮される内容の限度というものが問題にはなっても、良い音楽の結果のためには指揮者を立てたり、メンバーのひとりが指揮者になったりすることも無意味な選択ではないかもしれない。

(C)ある個人が自分で特定の楽器なり声なりを使うことが出来ない/しない一方、音楽を造りたいと願う場合、協力してくれる演奏者がいるのであれば、その人には指揮者として即興をコンダクトするというオプションがある。その集団が、即興を主たる方法として採用している以上、出てくる音がどこまで指揮者の意図(イメージ)したものに近いかは、分からない。しかし、そうした結果を受け容れた上である個人が「指揮」者の立場を選ぶならば、その指揮者の制御する即興演奏というものが想定可能かもしれない。その場合、その「指揮」者が、どのように集団と関わるかと言う点に関しては、あらゆる可能な度合いというものがあるだろう。

(C1)指揮者の出すキューの意味をあらかじめ事細かにすべて決めおいて、そのキューにしたがって即興をするという場合があるかもしれない。あるいは、(C2)作曲された楽曲を演奏させるように、指揮者がリズムやビートの様式だけを指示しそれを維持させるという演奏者との関わりだってあり得る。あるいは、因習的な意味で、到底指揮とは呼べないような方法を「指揮者」が採ることだってあり得るだろう。たとえば、(C3)独自の「身体表現」を使って、あたかも舞踏家のそれのように演奏者の前で体を動かし、それに演奏者が呼応したりある種の影響を受けたりしながら、思うように演奏してもらうというのだって、ある種の「指揮」と言えるかも知れないのだ。

いずれにせよ、「指揮者」対「演奏者集団」という二者を想定したとき、指揮の採用をパフォーマンスの手段として選択する以上、指揮者と演奏者との間に最低限の「合意 concensus」を設ける必要があるはずだ。指揮の機能や権能の範囲を決めることは現実的にきわめて重要なこととなるだろう。そのあたりの決めゴトをせずに、ただ指揮を立てると言うことを目的化するとすれば、それは単なるお遊び実験に過ぎないだろう。しかもそれ自体で、何らの結論を見出すこともできない類の「実験」である。

指揮を立てることで、演奏者は何を獲得するのか。また即興演奏の指揮として立つことで、指揮者自身は何を実現するのか。そのあたりの、互いの意図やもたらされる満足というものを度外視して採ることは出来ない重要な問題がこの「即興手法」の中には含まれているはずだからである。

また、最後に、ある方法を採用することと結果との間に呼応する関係というものを見極めるのは、それはそれできわめて難しい、というのは改めて強調しておきたい。以前、一度記述したように、ある即興の手法と実際に演奏された結果が、どこまで因果関係的に説明可能かと言う疑問があるからである。どこまでが原因causeであり、どこまでがそれによる結果effectsであるかの断定が容易でないからである。つまり、良い演奏や悪い演奏のための必要条件を思うままに列挙することは出来ても、良い結果のための十分条件を定式化することがほぼ不可能だからである。それは、「指揮を採用する即興」というものに関しても、同じ事が言えるはずであり、それが吉と出ようと凶と出ようと、1度きりの方法と結果とをもって性急に結論に飛びつくことが出来ないことを意味するのである。これも一生ものの試行錯誤を要求する課題であろう。


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