音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

『即興音場に関する「良い音楽」観の別側面』と
拙論『聴取のエキスパート』を読む
January 20-21, 2001

以下の文章には、理由はどうであれ私に起こった誤解が元で生じた「不適切」な見解が散見されるので、極めて不格好ながらも、注を挿入する事で修正することにした。以下注は、January 22, 2001に挿入された

私はどうして近藤さんがこうした文章をぶちあげたかの理由を知っている。もちろん、彼は、I Thoughtの『01.1.20 即興音場に関する「良い音楽」観の別側面』で語っていることに徐々に接近しつつあったことは確かだろう。近藤さんがどのような背景、コンテクストの中でこのような文章を書くに至ったのかということの説明も、私が思うことを主張するのと同じほど重要だと考える。

近藤氏とのやりとりがこういうある種緊張感を伴う「真剣み」を帯びるに至ったのは、ひとつにはわれわれ各自の「やろうとしていること」や「やっていること」が人生において切実な課題であり、それらを選択した正当性を主張する必要が共同の創作過程のさまざまな局面で出てくる(だろう)からである。しかし、それは恐らくそれぞれの「考え」がどうのと言うより、「置かれている立場」が抜き差しならないことを示しているに他ならない。以前にも書いたが、互いの「考え」にどのような価値があるのか、ということではなく、互いが反論する必要もなくなるほどの、互いの置かれている立場への愛情 (sympathy) と理解 (understanding) が必要になる、ということである。立場の問題であるなら、実は互いに救いようがあるのである。したがって、私はこのような主張をした後でさえ、近藤氏との関係にヒビが入らないだろうと(一方的だが)楽観的に考えている。

さて、『01.1.20 即興音場に関する「良い音楽」観の別側面』を読んだとき、正直言ってまず私は「この野郎」と思ったわけだ。「まるで音楽を聴く人をランク付けしているように見えてしまう」と書いているが、「見えてしまう」のではなく、まさに格付けしているのだと思ったし、構造を捉えることが出来るという彼自身の私に対する優位性を暗に仄めかしているとも考えた。

これについては、1月22日の電話による会話で、近藤氏は本当に自分の優位性を仄めかす意図を持っていなかったということを再度説明し、筆者はそれをついに理解した。ランク付けに絡めて言えば、近藤氏は彼自身も筆者の私もアドルノの区分化による1. に属するものと最初は理解していたが、両者とも2.であることを痛感した、ということを言いたかったらしい。慎重に話を聞くことで、それが彼の本心であることを納得した。

また差別と区別を混同されることを恐れていると言いつつ、すべての差別は区別から始まるのも事実である。また差別するためにはまず厳密な区別がなければならないのも確かである。そして、私が少なくとも彼から「聴取のエキスパートでない」に「区別」されたのであれば、私は彼をどう「区別」するであろうか。また、ランク付けの絶対的な善し悪しはともかくとして、ランク付けをしてしまう近藤氏の心理というものに、私は大いなる興味を持ったのである。いや、このようなことは泥仕合になるのでこの辺でやめにしよう。ランク付けが目的ではなく、聴取者の範疇を「まとめる」ことが彼の善意の目的であったと考えられるからである。

このパラグラフは上の注にある私の誤解が明らかになったため、すでに意味を持っていない。

しかし、私が感じた一通りの不快感を一旦表明することは、恐らく許されるだろう。少なくとも、近藤氏はそれを立ち上げたときにそのリスクを認識していた。氏本人は、前もって「そうではない」と断りつつも、要するに結局は「聴取のエキスパート」を自ら以て任じているのであり、「音楽的エキスパートであると思える人たち」が、実はそうした「自分のレベル」にさえ到達していないと感じられる「ある経験」と「会話のやりとり」があったということなのである。少なくとも、私はそう取った。そして、それは単なる私の狭量さがもたらした誤解なのか?

誤解が起きた原因が私の方にのみ一方的に存在している訳でないにしても、「一通りの不快感」というのが、表明するに値しないものに現在なっている。

もちろん氏は、「ついに確信した」と思える境地に達したためにその文章は書かれなければならなかった。そして、私との間で起きた先の経験とやりとりがそのきっかけとなったのは、私にはあまりに明らかであった。

言うまでもなく、「ついに確信した」内容は、彼の私への聴取能力に於ける優位性ではなく、両者がアドルノの区分1ではない、ということの「確信」である。

たとえば、彼の文章の中で、「オーケストラ団員で自分の演奏だけを聴いていて、全体の構造をあまり聴いていない人」というのが出てくるが、これは、まさに私が会話の中で「振ってしまった」フレーズである。それを言ったコンテクストの中では、それで良いのだとか言いたかったのではなく、そのような「不幸がオケの団員には起こりがちである」ということを言いたかったのであり、そうした問題認識の共有がそれで図られると思ったわけである。その意味では、こともあろうにその昔オーケストラ・プレイヤーを目指したことがある私自身やその仲間たちにそのような課題があったわけだが、現在私がそうであるということを告白しているのでもなければ、もし万が一依然としてそうであるとして、それで善しとしているのでもない。「音楽の構造を捉えること」が依然として極めて重要な作業であることになんの反論もない。

ただ、音楽の構造を捉えることでしか聴くことが出来ない職業病であるかもしれないと告白した近藤氏にこそ(それが本当であれば)より深刻な聴取者としての課題があるとも言えるのである。前論『聴取のエキスパート』を通して私が言いたかったことは、まさに硬直したひとつの方法で音楽のすべての対象が把握できるのではないというところにあり、まさに創作分野に於ける知性の過大評価に対する疑問である。また「構造が完全に予想できてしまうと非常に退屈になってしまう」という聴取者の傾向が、反復聴取を可能にした「複製された作品(古典やメインストリームジャズを商品化したモノ)」に関わって、断じて近藤氏だけの問題ではなく私も含めた多くの「音楽の消費者」に共通した問題であることを痛切に感じているからである。なぜわれわれはそうなってしまったのか? どうしたらそうした「無感動」から抜け出すことが出来るのか? どうしてわれわれは音楽の歌に対して不感症になってしまったのか? 少なくとも、私は音楽の構造を複雑化することでそれが成し遂げられるとは思うほど楽観していない。われわれがそれをやらなくとも、それはすでにやり尽くされたことなのである。

私が10年以上前に夢中になって聴いていた、知的にアプローチされたある種のrock musicの多くが、突然つまらなく感じられるようになり、ついにはまったく私を感動させなくなったのは、むしろその病的なまでに追求された構造にこそ問題があったのであって、あるいはまた構造を造り上げてそれで終わっていたからだということを痛いほど知った。これほどまでに即興という手法に私が現在こだわっているのも、「構造化したいから」ではなく、構造以外のところにある「音楽の或る要素」により魅了されているからである。構造がそんなに重要なら、作曲にでも打ち込めばいいのであって、それを自分の納得のいく演奏家にやってもらえばいいのである。あるいは、予想不可能性が音楽の本質であるというのなら、コンピュータやそれに類した装置に「不確実性のプログラム」を組み込んでどこぞの“作曲家”がやっているように自動演奏させて、それを聴取して悦に入ればいいのである。

私は、近藤氏と会話する前も後も次のことでは、自らの見解を変えていない:
演奏者の特性を互いが活かしたり、各人の潜在性が独りでいるときより多く引き出されるような相互協力が出来ることが、集団即興による「良い音楽」を期待できる条件なのだ、という点である。

つまり、こうした前提があって近藤氏の『即興音場に関する「良い音楽」観の別側面』も私の『聴取のエキスパート』も読まれなければならないのであり、書かれていることの純粋な意味ばかりでなく、何が私をしてここまで書くに至らしめたのか、というのも、実はその内容と同じほど重要なことなのである。とくに、これらの著述を通じてこれからひょっとして起きてしまうかもしれないことをあれこれ想像するに、とりわけ必要と思われたのであった。

近藤さん、これからも緊張感のある論客であって下さい。Thanks for your kindness!


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