音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

よい即興・わるい即興
December 4, 2003

音楽の話なんかしていて「よい即興、わるい即興というものはない」という言い方が出てくることがある。人によっては「即興というものはみんな好い」という言い方をすることもあるみたいだ。即興音楽なんぞを日常的にやっていると、結構そのテの主張というのは耳にすることがあって、それも割と真剣に「よい即興」をしようと努力しているかに見える演奏家の口から漏れることがあるから、正直言ってちょっと驚くことがあるね。驚く自分というのは、「そりゃあおめぇ、音楽にいいわるいがあるに決まってっだろ」と常日頃考えているいわゆる「伝統的な音楽愛好家、演奏家」としての自分の「いやらしい立場」がどうしたってあるからだけどね。

即興音楽を伝統的な意味で「より楽しく実りのある音楽創作」をめざす努力の延長であると考える限りにおいて、因習的な意味で(それはこの言葉のニュアンスから受け取られるようなネガティブな暗示をまったく持たせないものの)、よい音楽、わるい音楽、という創作結果からうけてしまう白黒的な「範疇分け」を根拠に、よい即興、わるい即興という判断がやはり可能だと疑問の余地なく信じている自分がいるわけだ。いずれにしても、そう信じる自分を客観的に相対化しようとしている自分もさらにいて、そして即興音楽が(この限定的側面に関してさえ)二通りの捉え方が出来る自分としては、「よいわるいで判断する即興音楽」と「よいわるいを越えた即興(のよさ)」の二面をすくなくとも視ていることになるかね。

そもそも「よい即興、わるい即興というものはない」と誰かが言うときってさ、その言葉の裏には何が想定されているのだろうね? 人間の人生そのものが即興の連鎖にほかならず、そんなものに善悪があるわけがない、とか、便宜的に善し悪しで一喜一憂することのできない、“人生万事塞翁が馬”的な、つまり「今日の善は明日の悪、今日の悪は明日の善」みたいなテツガク的レベルのことを想定しているはなしなのかな? わたしゃアタマがわるいんで察しが悪い。

おそらく、それを言う当人はあくまでも「即興という行為」自体を音楽創作から切り離して考えているということなんだろうと筆者は憶測した。それなら分かる気がするじゃない。一方、筆者が「即興」と言うとき、無条件的にほぼ九割がた即興音楽のことを取りあげているわけなんだけど、そうではなく、純粋な即興、という“人生における行動の取り組み”みたいな深遠なことを指して話しているのであれば、それに「よいわるい」もなかろう。そこには純粋に“即興”が存在しているだけなのだから。それは何となく分かるな。

しかし、ちょっと待てよと言う気にもなるな。だって、それを言い出せば、生命現象に善も悪もない、それはただそこに在るだけだ、みたいなハナシになって、そもそも良いとか悪いとかいうことから超然と離れた彼岸的観点に立脚しているわけだから、そもそもそのような話に乗ってくるなよ(あるいははなしを振ってくるなよ)、ということになる。そういう善悪を超越した立場でモノが話せるなら、そもそも即興云々という事を取りあげる必要さえなかったんじゃないか。善し悪しをたのしく語ろうということ自体が、互いの音楽についての“現世的な”抜き差しならぬ価値観について腹蔵なく話してみようよ、ということなんであって、その前提を覆すようなことを言えば、話自体が勢い詰まらなくなると思うね。

さて、おれたち純粋に音楽を愛好する者たちからすれば、役に立つか否かという観点で音楽の価値を云々するものではない(たいがいは)。しかし、世の中の多くのものが、役に立つか否かという観点でその善し悪しを判断されていることも確かだ。

たとえば、「庭の話」があったりする。この場所が『庭園』だからということもあるしね。庭を拡大した都市公園みたいな(公的資金が一杯投入された)巨大“庭園”みたいなものを考えると分かりやすいかもしれない。よい庭園 = 性能の良い庭、役に立つ庭、技巧的な庭、といったみんなに分かりやすい一連の物差しで庭を評価する(この辺りは誰かの言説のパクリだな)とすれば、庭について「良い悪い」という判断は、当然可能になる。

ゆったりと休めて雰囲気も良くデートコースとしてもよく練られていれば「性能の良い庭」と言えるだろうし、空襲や地震の時に逃げ込めるような空間になっていれば、それもきっと「性能」の部分で評価されるのかもしれない。ハーブ園や菜園があったり、二酸化炭素を一杯吸収する鬱蒼たる常緑樹がいっぱいあったりすれば「役に立つ庭」だろうし、あっと驚くような発想のデザインや、高い土木技術でできた橋やら噴水やら東屋なんかがあれば、それは「技巧的な庭」なんだろう。

しかし、「(自然の)あるがままの状態」プラス「好きなときに好きなだけ投入する人為」という組み合わせとして庭(個人庭)のありようを考えるとき、どのような在り方でも「庭」には固有の意味(存在意義)がある、という言い方もやはり出てくる。あるがまま(あるいはあるがままに見えるもの)を受け容れるという「寛容」な態度、あるいは人間と自然の「合作」で捻出したモノに対するいわば哲学的境地は、ある程度の人生経験と思惟の後に到達可能なものだろう。

しかし、あくまでも今取りあげた「庭」の在り方・捉え方からインスパイアされた音楽の在り方・捉え方というものを想像してみると、「(人為なく)あるがままの音の組合せ」に満ちた世界に、人為的に「好きな時に好きなだけ音を投入する」ことで世界に影響を与える!というような、「音を通じた世界との微妙な関わり方」みたいな在り方や捉え方というのがあっても良いのかな、などともたしかに思う。ただ、音楽をきわめて西洋音楽の伝統的立場から捉えている筆者(悪いかよ!)からすると、そういう「禅的なアプローチ」は俺の独壇場じゃないなとも思えてしまうのである。(やっぱりね、考える音楽家じゃないのだよ、ざんねんながら筆者は。)

ただ、そうした即興音楽の持つ二面性が必ずしも両立し得ないものと考える必要もない。伝統的な観点で「よい即興」であるのと同時に、「よいわるいを超えた即興」であるということができる(目指せる)はずである。いや、目指したいな。

人間は様々なことで感動体験を持つ。ひとの生きザマそのものから純粋に感動を覚えることもあれば、生きザマというよりは専門家のたゆまぬ技術的修練の努力によってしか到達できないある種の結果によって心動かされることもある。

問題は、そのどちらに関心を抱いて価値あるものと考えるか、かもしれないけど、でも自分の信じる価値基準があくまでも当面のモノであって、経験や学習によっていつでも十分に相対化されうるということを知っているかどうかだろうな、大事なのはおそらく。(なんか優等生的なまとめ方だな、どーも気にいらねーな)


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