音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

わかってたまるか! あるいは「みち」と詩
October 28, 2000
 
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誤解を恐れずに言おう。しかし、最後まで読み進めてみる辛抱強さのない人は、先に読み進まぬ方が良いことが、ここには書かれているとだけ断っておきたい。(June 11, 2001に加筆された断り書き)

詩は詩人にしか分からない言語で書かれたものであり、書や踊りや花を生ける行為の真意は、それぞれ、書を行う人、踊る人、花を生けることのできる人によってのみ本当に理解できる(かもしれない)言語や文法を使って行われているのである。それで良いとか、悪いとか、そういうことを言っているのではなく、そういうものなのである。

あらゆる仕事(work)がそうである。仕事の複雑さやその流れや体系、そしてそこから得られる苦しみや歓びは、想像することはできても部外者には容易に理解することができない。あたりまえだが、熟練した人同士でしか理解できないことが多くある。華の道は花を生けることができる人にしか理解できないことがあり、茶の道は茶を入れる人にしか理解できない領域がある。そしてそれを味わい、楽しむことができるほど近づきたいのであれば自分で文法や作法を学び、花を生けたり茶を入れてみるしかない。そして、ルールは難しく制限的なものであればあるほど、その制限内で達成できる美に特別な意味が発生する。したがって簡単にまねできるものであってはいけないし、何がどう違うのか、そしてある2つの作品のあいだの差(違い)が何であるのかが簡単に言語化できるような類のものであるはずがない。したがって、それなりの結果を獲得しようとするならば、相応の献身(commitment)が必要になるのである。そしてそれは人のためのコミットメントではない、自己がある場所に至るためのまったき自己目的的な献身なのである。

仕事のルールは部外者には一見無意味であっても複雑で簡単に到達できないものであるが故に、ゲームとしての仕事を楽しくするのかもしれない。しかし、ゲームと異なり、これら道に設けてある制限・作法(ルール)には、ことごとく「意味」がある。したがってそれに習熟する「理由」が生じる。

人に理解できないことをやっているからと言ってそれは嘆くに値しない。それだけ面白いことに関わっている証拠だからである。人にも分かるようなものにしようなどと言う考えは、その「みち」をつまらなくする。理解把握するのが不可能なぐらい難しくしておくが良い。多くの人も参加できて、誰でも楽しめるお茶会や生け花の会などは邪道である。すそ野を広げ、多くの人がそれを支えるようにして「文化」化することは、道の「生き残り」のための必要かもしれないが、それは必要悪であり、なによりも本質を危うくする選択である。

音の道(おとのみち)の世界でも多くの人によって理解できない分野があって当然である。また、それらは作法として伝統化され、保持されなければならない。このようなことを言うと、だから現代の作曲家たちはそれを成すべく頑張っているではないか、とすぐに返ってくる。しかし、ここでの本旨は、「分からなければいい、難しければいい」と言うことでは断じてない。が、習熟するに困難があり、その困難に打ち勝ったその先にはその秘密(意味)を識る歓びと達成感による満足がなければならない。

すべての古典的創作、伝統作法、道(みち)にはディオニッソス的高揚、あるいは「苦悩を経て歓びへ」の大原則、真のromanticismのプリンシパルが潜んでいるのであって、表面的に「ロマンチック」な個人主義的表現とは全く異にする本質的秘密が真の芸術の世界には存するのである。

しかしこれにも続きがある。


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