音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

なぜ癒されたいのか
November 16 - December 6, 2000
 
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そして、どうして癒されたいのか考えてみた。で、彼らは本当に癒されたいのか? 癒される必要があるほど傷ついているのか? 疲れているのか? 実のところ、彼らは傷ついても疲れてもいないのではあるまいか? 私が思うに「癒し」とかいう流行言葉に飛びつく手合いは、むしろ退屈をしているのだと思う。しかもなぜ自分が退屈しているのか、というメカニズム自体を理解していない。だいたい自分が退屈している理由を自分以外の外に求める。これは彼らに共通した性向である。それを理解していないから退屈の堂々巡りから逃れられない。退屈が病であるという考えにのっとれば、彼らは確かに根本的な治療を必要としているのかもしれない。余計なお世話だろうが、「癒す」とかいうものでない何かを必要としているのだろう。もちろん、われわれがそのようなことに首を突っ込む必要があるのか、という疑問は生じるが、退屈は自分を含む誰の心にも忍び入ってくる罠である以上、考えることは無駄にはなるまい。

われわれが本当に困窮するほど貧しいのであれば、忙しくなるはずである。こんな「退屈の原因を考える」などという煩わしいプロセスも必要なかろうし、ましてや「無意味の意義」の構築に勤しむ必要もない。しかし、こうした事態が生じ、しかも問題となる当人達はむしろ裕福であったり、生活するための苦を感じなくて良いクラスの人々であったりする。そしてそれはこんなものを書いたり読んだりすることができるわれわれのような人々にこそ起こりうることなのである。自分が意味ある存在であることを実感していたり自他共に示すことができないひとびとは、おそらく仕事に忙しくもなく、家庭でも必要とされず、なにをやればいいのか分からない。ライフワークと呼ぶにふさわしい「飯のネタにもならないわくわくするテーマ」を持っているわけでもなく、夢中になれるもの自体がない。

自己の潜在能力の開発だか自己啓発だか脳内革命だかにいそしんだり、英会話やカルチャーセンターに通ってみようと考える人たちは、趣味を探し求めているのではなく、消費する対象を探しているのである。案外ちゃんとした仕事はあって安定した収入があるような人にこそ、このような行動に出る可能性が高い。学ぶ具体的かつ切実な理由がなければ、英会話などをやっても身に付かない。にも関わらず、それに参加することで何か「ためになること」をやっている気がして安心できる。だいたい何のためのどんな潜在能力なのか? 脳内革命して何を達成したいのか? 他人に自己啓発されてそれが自分だというのか? それともただ頭の回転が速くなったりする事自体に価値があるのか? 何をしたい、何を達成したいという本来の自発的目的がここにはない。

特に現代に特有の現象なのだろうが、こうしたひとは何をしたいのか分かっていないとき、その関心はだいたい消費に向かうということがあると思う。消費したくなる衝動は、忙しくライフワークにいそしんでいる人の心にさえ油断をしていると執拗に入り込んで来て心を蝕む点で、誰にでも関わる問題となる。自分で何か作れなければ、誰かが作ってくれたモノを買ってきてそれで部屋を満たせばいい。なんか豊かな生活になったような気がする。何が欲しいのかさえ分からないのであれば、コンビニに行って「最新グッズ系」の雑誌の一冊でも買ってくれば、自分に何が足りなくて、何が欲しいのか決められる。ついに流行が分かって自分の持っているものがいかに時代遅れで恰好が悪いのかよーく分からせてくれる。何をゲットすればいいか目標が定まれば、今度は街に出て行って実践(買い物)だ。これほど夢中にさせてくれて、退屈を忘れさせてくれる冒険があろうか? 消費は立派な癒しなのである!

さて「退屈をシリアスにやる」というのは、自分の知る限りで私が最高の音楽家のひとりだと信じる安藤広氏がいみじくも使った表現だ。これは理解されようということを放棄した「現代芸術」、生活と切りはなされ現代人にとって意味を失った「伝統芸能」、これら一般に関わっている人たちの態度を言い表した言葉だが、このような傾向はこうした特殊な職業を生業(なりわい)としている人たちにだけ言えることではなく、消費に向かいがちなすべての現代人の陥りやすいもうひとつの罠である。

それは独善と隣り合わせにある行為であり、しばしば芸術と勘違いされて一般の「評価」の対象となる。彼らは一見「商業主義に反旗を翻している」「簡単に理解できない深い内容である」「人を寄せ付けない孤高の表現者」などのシリアスな理由で、その退屈は崇高なものであるといとも簡単に混同されるが、またそれに関わる人自身が自らを欺くことで、二重三重の欺瞞の仮面で自分を覆っているだけの可能性さえある。これもまたわれわれ現代人の典型的傾向である。過去を安直に否定し、芸術に本質的意味を読みとれない者たちが大量生産され、それは恥とされない。同時に「創作活動への自由参加」が広く可能となり、「無意味」を大量生産して「芸術だ」と宣言できる。もちろんこのような事態になったのは昨日今日ではない。しかし、こうした個人崇拝主義の純粋培養の第三、第四、第五世代が闊歩しているのが今日の幸せな時代である。Congratulations!

ここで、癒されようとするのでなく、自分が創作に没頭することで救われる、という元の話に戻ってみる。そこでは、やること自体に本質的な意義があるとの自覚がある。それならば、そうした行為にあえて「art」だとか「芸術」だとかと名付ける必要があるだろうか(そんなものは歴史家に任せておけばいいのである)。「癒し」だろうが「自己満足」だろうが、人はあれこれ言うだろう(そして言わせておけばいい)。しかし、それでもそうした行為が自己の質の高い生活に欠かせないのであるならば、それを止める謂われは誰にもない。すくなくとも、自分のやっていることに普遍的な価値判断をしないでそれに邁進する以外にないばかりか、その限りにおいて何の罪もない。

しかし、依然一方で、発信者と受信者との間の明確な相互作用をめざした本来的な意味での芸術に真摯に立ち向かっている人たちもこの現代社会においてごくごく稀ながら存在し、そうした人々の本質的芸術行為との混乱を避けるためにも、こうした「人を寄せ付けない孤高の創作活動」に没頭する愛すべき人々は(私自身も含めて)自分のやろうとしていることの意味(あるいは無意味)をよく自覚して、その結果得られるかもしれない評判や批判を甘んじて受け容れる覚悟を持つべきなのである。


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