衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

「家族は社会の最小単位 」という言い方
May 30, 2000
 
English version

結論から言うと、「家族」は「社会の最小単位」ではない。「個人」が「社会の最小単位 」であることは、疑いもないからである。

私個人は、伝統的な価値観そのものをすべて無条件に否定するものでもなく、伝統的な家族の価値(family value)というものを過小評価する気はみじんもないので、「家族が社会の最小単位 である」という主張や修辞上の問題にあれこれ口出しする必要はない、と口を挟む人もあるかもしれない。しかし、間違っている表現はたださねばならない。

もし、家族の価値(family value)を信じ、それを主張したいのであれば、「家族は、最小(単位 )の社会である」と言い直してもことは足りる。「社会の最小単位」と「最小単位 の社会」はまったく別のシロモノだ。かりに、個人が社会の最小単位であることを主張する、反「家族の価値」派でも、「家族が最小単位 の社会である」ことには反論できないはずである。なぜならば、社会という以上、そこには2人以上の構成員が必要なわけで、「個人」という社会はあり得ないからである。もちろん、このときの「家族」という表現には、子供のいない既婚のカップルもさまざまなカタチの未婚のカップルもぜんぶ含まれる可能性のある話だ。

いま、「家族の価値」の問題とも絡めて話をしてしまったので、かえって問題が複雑になってしまったかもしれないが、そうしたことをまったく度外視して考えても、「家族が社会の最小単位 」という言い方は修辞上のエラーだと思う。ただ、みんなが覚えてしまったこのフレーズは、すでに一人歩きを始めてしまっており、まったく無反省・無条件的に、それはすでに社会でエスタブリッシュされた事実として大手をふるって歩いているようにも見える。

一旦、「家族が社会の最小単位である」、ということが考察の余地のない既成事実であるとすれば、この約束事が、現実にあるように、「家族にしかない家族であるが故の不幸な問題」を抱えている人々にとっての暗黙のプレッシャーとなって機能してくるだろう。家族が家族であるというそれだけの理由で、そのちいさな社会が無条件的にうまく機能するとは限らない。家族が選べない以上、私たちが生まれてしまったその「家族という社会」はいくらでも「不幸な社会」であった可能性がある。後から生まれてきた家族の一員(こども)による個人的努力で克服できることにも限界がある。いくら努力しても家を省みない父親は変わらないかもしれない。いくら努力しても娘を感情的に嫌い嫉妬する母親は変わらないかもしれない。だめな家族なんてモノは、解体してしまった方がいいという場合だってあると言うではないか。最小単位 という言葉には「それ以上細分化不能の社会の原子である」という言外のニュアンスがある。それがいかなる種類のものであろうと関わりなく「家族」が、無条件的に維持されなければならない「最小単位 」であるという、その言い方が、不幸な家族を持った人々を苦しめている可能性を考えなければならない。

なんかこうして考えるほどに、この「家族が社会の最小単位」という言い方が、単なるエラーであるというより、無条件的に「伝統的な家族の価値」を標榜推進する者たちのキャンペーンとして流布されたフレーズだったのではないか、との疑念さえ深めるのである。

そこで、なんの価値判断も含まれないフレーズ、「最小単位の社会、それは家族。でも社会の最小単位 、それは個人」という表現にすべて置き換えていくべきだと提唱するのである。それではみんなでもう一度唱和して下さい、ハイ。

「最小単位の社会、それは家族。社会の最小単位、それは個人。」

関連文書(June 10, 2000)あり


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