衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

科学は「非オカルト」的存在に昇格し得たか[1]
June 1, 1998
 
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何度もこの部分から話を始めなければならないのは何とも骨の折れることではある。が、言葉そのものが誤解されており、私の論じることが、誤解の上に認識されたそれと同一視されてはかなわないので、ここで「語源に戻る」といういつもの作業から始めなければならない。

「オカルト」という言葉は、依然として降霊術などの俗なる心霊現象や妖術、呪術といった超自然的活動一般 を思い起こさせるものであるらしい。もっと言うなら、来世体験、超能力からUFOや妖怪の存在まで、「不思議な現象すべて」に(あきれたことに)話が拡張されて語られることさえあるのだ。その認識のもとに、映画「エクソシスト」がオカルト映画だと呼ばれる訳である。しかし、「隠されたもの」という語源から考えれば、むしろ秘教的教義(宗教の公教的な諸活動もしくは公教的メッセージによって巧妙に隠された部分)のこと、あるいはそれらを扱う種々の学習活動のことと捉えられるべきである。すなわち、神話や聖書世界の叙述の真の解釈(特に黙示的解釈)や伝統芸術の象徴体系の解読に関わる種々の活動のことなのである。人類とその文明の「生起」やその「行く末」に深く関わっているという意味で---あるいは分かりやすく言えば宗教の扱う問題、即ち「人の生死」あるいは「文明の誕生と死」の問題に分かち難く関与しているという意味で---心霊的現象とまったく無関係ではないものの、それらは、断じて「第二義的の」、即ち雑多に分岐した「各論の一つとしてのオカルト」と考えて扱うべき課題なのである。

こうした本来的な意味とは別に、現在われわれが聞くことのある言葉やニュアンスとしての「オカルト」あるいは「魔術」というのは、歴史上の新旧勢力双方が互いを罵っていう言い方の延長線上にあるに過ぎない。そしてまた、「新勢力」という言い方も、実のところ、その前の勢力に対して相対的に後からやってきたために「新しい」ということに過ぎず、必ずその後からいずれやってくる新勢力との相対的関係において、旧勢力となってしまうのが宿命である。加えて、ある時代の新勢力は、旧勢力というふうに「格下げ」された勢力の、さらに前の勢力の焼き直し版であったりするのである。つまり、新勢力が現在力を握っている勢力の「以前の勢力の復古」であったりするわけで、そうした意味から言っても「新旧」そのものがある種の価値判断を表現しきれない非常に相対的な表現に過ぎないことが分かってくる。

さて、ここで常にあらゆる時代において、旧勢力にとって、新勢力が試す錬金術や科学実験などの活動は、旧世界の調和を乱す術、即ち「魔術」であると捉えうる。この際、科学も錬金術も同じだけアブナイものとしてしか写 らない。一方、新勢力にとって旧勢力の維持し続ける意味不明のコード体系、即ち、伝統や神話、そして特に伝統の中でも、しきたり、慣習、儀式なるものの幾つかはまさに怪しげな「オカルト」(迷妄・迷信)であるとしか思えない。たとえば、旧世界の代表であると捉えることのできるカトリック教会も、その昔の多神教paganismは「オカルト」(呪術)的な迷妄であるに過ぎず、多神教徒から観れば、ローマ教会(カトリック)は単なる急進的な調和世界の破壊者であったに過ぎないのである。

さて、前段となる部分が長くなったが、長くなったついでにもうひとつの前提を付け加えておいても良いだろう。それはこの拙論にいて見出される「科学」と「芸術」の2つの語には明確な概念的相違はない、と言う前提のことである。これについては、それだけで多くのことが論じられ得るが、別の機会に譲ることにする。

つづく


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