衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

科学は「非オカルト」的存在に昇格し得たか[2]
May 30, 2000
 
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実のところ、宗教組織がいつまでも科学と対立して「伝統世界」の維持にのみ力を傾注し続けたということではなかった。科学(あるいは、昔の言葉で言えば錬金術)が、教会の或る教義の重要箇所について疑いの目を向け始めた当初、科学は教会にとってただ危険なばかりの敵であったのかも知れない。しかし「科学」(あるいは科学者の集団)が一つの人間の組織(勢力)として働き始め、ある種の力(権力・権威)を集め始めれば、科学そのものは単なる「敵の論理」と考えてないがしろにして済ませられるものでもなくなってしまった。ましてや「科学」が保守勢力の牙城としてのカトリック教会を敵に回し、革新勢力としてのプロテスタントに与(くみ)するという、いわば「より政治的な関わり」を深めるとなれば、「科学」の持つ科学的論理を旧勢力も見逃すわけには行かなくなったであろう。

即ち、「伝統世界をひたすらに保持する」という初期の無条件的目的の完遂ではなく、人間の組織として「影響力を世の中に行使しつつ生き残る」という、権力として機能する「組織の生命(系の存続)」の優先が強調されていくわけである。こうなればカトリックも「科学」的思考を進んで取り入れて新勢力と張り合わなければならない。「科学」を、伝統社会を滅ぼす邪悪な存在として単に唾棄すべき対象としてではなく、すすんで科学者(錬金術師)や芸術家(この両者にもまた明瞭な区別 はなかった)を自分らの存在理由や権威の強化のために多く雇い入れ、1500年代中期の<実力行使>の最終局面 においては、イエズス会のような使命を帯びたメンバーを科学や芸術で武装させ、敵地に乗り込ませることさえもはや厭わなかったのである。

こうなると、「科学」(あるいは科学革命只中の錬金術)は、単なる科学的思考や何か邪悪な事を実現する技術である、というよりは、組織が生き残り勝利するために必要な、既存の教義の下位 概念ということになるのであり、「人間の組織」としての新旧勢力双方による生き残りを賭けた明瞭な闘争手段ということになっていく。これは、教会の新旧勢力双方のどちらかの一方的勝利というものでなく、実は下位 概念であった「科学」の全面的勝利であった。もはや、それを正面切って誹謗中傷するものはいないのである(すくなくとも、ある時期の「西洋」社会においては)。

新しい概念---それは実のところ単に「言葉」、あるいは「言葉による約束」であるに過ぎないのであるが---の勝利とは、いつもこういう形でやってくる。たとえば、「貨幣」という交換手段の概念の登場も同様であったかもしれない。物々交換以外の交換手段を持たなかった旧世界というものを想定してみる。その伝統世界の維持者は、貨幣という「新経済」の手段を邪悪視して、はじめは貨幣そのものを敵として排除すべく実力行使をこころみようとしたかもしれない。しかしそれら貨幣を用いている新世界の連中がうまく世の中で立ち回り、影響力を行使してくるようになれば、旧勢力も貨幣制度を導入するなどして、結局は敵に勝つために、本来敵の用いていた道具を率先して利用するしかなくなるのである。相手が銀行を作れば、自分たちも銀行を作って対抗しなければならない。相手が金融の自由化をすれば、自分たちも自由化して競争力を付けなければならない。

旧世界にとっての敵は、科学や芸術や貨幣といった制度や約束ごとといった「概念」自体ではなく、それらを使う者たち自身であることが改めて判り、そうした制度や道具は、結局勝つために欠かせない「生活形態の洗練」という生き残りのための必要悪となった。そうなれば、「それなしでは生存が考えられない」といった状況になり、新概念は生活の必須要素へと昇格していくのである。

このように先ほどのケースで考えるならば、両勢力間の闘いの第二段階においては、たとえば「貨幣経済」さえもはや唾棄すべき対象ではなくなり、貨幣によってもたらされる利便を最大限に楽しみ利用しつつ、今度は、旧勢力が、新勢力との「経済」戦争を繰り広げることになる。この場合、貨幣制度という概念(言葉)の全面的勝利と言えるだろう。そして、さらに言えば、それは言葉による「概念」の勝利なのであった。

つづく
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