衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

科学は「非オカルト」的存在に昇格し得たか[3]
June 10 - July 13, 2000
 
English version

これまで見てきたように、オカルトという言葉は、 通俗的な理解によれば「理屈で説明できないもの」「科学によって迷妄・迷信」として退けられてきた「旧時代の世界観」、あるいはそれへの病的傾斜、といったきわめて曖昧かつ広範なるものを指しているが、実はそれらはすべからく語源的には誤りである、ということがあった。一方、新しい生活向上のための概念は、その概念自体に潜在する危険のために旧勢力によって敵視され、またそれによって両勢力間の対立はさらに著しいものになるが、闘争の第二段階において、それぞれの勢力の「教義」の下位概念に落ち着く。とりわけ、保守をする必要があった旧勢力においては、なし崩し的な倫理観の喪失は闘争の本来の理由を見失うことを意味した。しかし、実はその新概念自体の勝利にほかならず、概念の「教義」に対する相対的地位 の向上がその最終局面において明らかになる。このようなおきまりのコースをたどって文明の洗練の度合いが高まっていくのであるが、この拙論における中心課題は、この昇格した概念たる「科学」が「通俗的オカルト」を越えたか、ということである。

一見して、多くの「宗教的教義」が歴史の荒波の中で有名無実のものになってしまったかの感があるが、その点がしかし問題である。すくなくとも、旧世界の教義が有名無実のものとなったと考えられるために、そうした教義の残照は「迷妄・迷信」などと呼ばれ、昇格された新概念を受け容れた人たち(新旧を問わず)からは忘れ去られようとするかに見える。そのなかで、否定的意味での「オカルト思想」として格下げdegradeされた教義は、いつの時代でもじつは再評価されるべく常に待機しているというのが真相なのではないか。しかも、そうした再評価は必ずしも旧弊な「時代錯誤的な人」によるものとは限らない。

それは、そうした旧勢力の信じた教義がいかに有効性を欠いたもののように見えても、そこに何らかの真理を含むものであるから、というのがひとつはあるかもしれない。

アリストテレスによってあらかじめ否定されたはずの「真空の宇宙」がようやく広く受け容れられ、しかも「万有引力の発見」と「勢いの理論」でもって物体の運動を上手に説明できるようになった時点で、デカルトによって唱えられた「渦動論」あるいは「エーテルによる連続宇宙論」は、ニュートンによって反駁された。ふたたび同時代のライプニッツによって支持された「連続宇宙論」も、旧弊かつ誤謬であると見なされた。しかるにそれは「真空が可能である」宇宙のモデルと万有引力の理論が、宇宙を「より簡潔に説明できた」がゆえに、そうなったとも言えるわけである。

ただ、ニュートンの万有引力が生き残り、真空の宇宙観へと修正された後ですら、エーテルではないかもしれないが、「エーテルのようなもの」を想定した方が説明がしやすい宇宙観というものがやはりあった。かのニュートン本人ですらが、エーテルの存在を万有引力の説明のために利用しようとしていたほどだ。つまり、エーテルの「エーテルらしさ」というものが時代とともに変遷していっても、そうした未知の概念の存在が、新しい理論の後ろに潜んでいる原理の説明に必要であればいつまでも生き伸び続けるのである。それは、新しい素粒子論などの登場により形を変えいまだに復活しているとも言えるわけだ。ただそれをもはや「エーテル」と呼ばないだけのことかもしれない。すくなくとも、高次元の理論の説明のために役立つところのより洗練され「古い宇宙観」が「はやりそういう説明は別の次元においては可能であった」として復権を果たすというようなことはこれからもありうるわけである。このように誤りであるとして退けられ(さらには軽蔑さえされ)た科学理論が未来に大手を振って復活するということが十分にあり得るわけである。

つづく
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