衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

科学は「非オカルト」的存在に昇格し得たか[4]
July 12-13, 2000
 
English version

分野自体の持つ性格に依るのでなく、目指す目標が分野を規定すると考えた場合、呪術としての「オカルト」の狙った目標は、むしろ科学によってひとつひとつ着実に実現されていった。それは「奇跡の実現」と言うことであり、要するに、遠距離交信、遠方観測、遠距離移動、高速移動、飛行術、航海術、不老長寿、原子核人工変換、などなどの実現である。方法論、すなわち実現にいたるまでの物事の考え方の面で、洗練はあったのであるが、呪術のねらいも科学のねらいも、結局同じであったと言えるわけである。

そして、非科学から科学にいたる、いわゆる「科学革命」でさえ、通念上ひろく受け容れられている政治革命のような突発的かつ急速な変化があったのではなく、世界認識の数世紀にわたるきわめて緩慢な洗練の努力があったにすぎない。またどうしてそのような努力を払ってきたのかという理由そのものは、「奇跡」のより確実かつ反復的実現にすぎなかったと言うこともでき、その再現に結びつける努力の当事者は、知らず知らずのうちにより確実なものへの方法論的洗練を通過したのであった。しかし、われわれが「科学」の創始者であると信じるような尊敬に値する一連の16〜17世紀の思想家、活動家の努力も、その目標とするものは、確かに俗世が求める類の幸福や利便ではなかったかもしれないものの、世界の由来、早い話が「神の実在の証明」であったりするのであり、その純粋目的でさえ、われわれの感覚での科学と言うよりは、あくまでも神学的・哲学的なものであった。(H・バターフィールド著『近代科学の誕生』参照)

科学的思考がもたらした副次的成果を利用するだけの人々にとっては、中世だろうと、現代であろうと、どうして「そのようなこと」が可能なのかの原理を説明したり実感することは滅多にないのであり、それが日常的に当たり前のものとして周囲に存在するために慣れてしまっており、あえて不思議がらないだけのことなのである。どれだけの人が月が地球の周りを1月に一度公転していることを自分の観察と推論だけで説明できよう。それ以前に自分の五感でもって地球の球体説を実感し、地球の裏側にいる人がなぜ下へ落ちていかないのか、ということの原理を説明できるというのか。われわれがこうした不思議を不思議がらずに平常心を保っていられるのは、所詮「小学校の先生(おとな)がそう言っていたから」という程度の理由なのである。

「聖職者」がそれを教えるのか、「科学者(または、先生)」がそれを教えるのかという違いとがあっても、自分で確かめようがないことを受け容れたり、信じたり、それを基盤とするテクノロジーに大いに依存している、われわれのその態度と生き様は、まさにかつての信仰者のそれと変わりがない。大多数の一般人たちにとっては、遠距離交信が呪術によって達成できても、電話によってできても、利用者の無知の度合いや、ありがたがり方の面では変わりがない。一般人の科学的原理にたいする無知と再現不可能性に関して思いを巡らせても、300年前も今も変わりがない。依然としてわれわれは「科学者」や「技術者」という別名で呼ばれるシャーマンや魔術師の世界にゆったりと依存して生きているのである。より有効性が高く(ということは、再現性が高く)、その理論体系で日頃問題がないと感じられる科学の側の「蓋然性(ありそうさ加減)」の高さために、われわれはおそらくそれを信じるのである。

そのとき、われわれの知っている「現代の宗教」と「現代の科学」のどちらを採るのか、という比較に陥りそうであるが、その比較は残念ながら誤謬である。過去の時代における「かつての宗教」とわれわれにとっての「科学」の機能を比較するべきであって、かつての人々とわれわれのそれぞれに対する信頼の仕方をこそ比較すべきなのである。いわゆる中世の宗教とわれわれの科学を比較するとき、私は、結局われわれはすべてを知ることができず、しかも懐疑的態度を不断に維持することもできず、いわゆる根拠のない無条件な信頼へと全面的に依存をする大多数の「同じ種類の人間」を双方に見出すばかりなのである。

そこで、私は科学の運動内部において、洗練と真の科学たろうとする局部的な努力を大いに見出すことを認めるにやぶさかでないものの、われわれ全般を省みるとき、相変わらず呪術的な意味での「オカルト」の世界にわれわれは生きており、相も変わらず、表層的な不思議と刹那的な利便を追い求める「オカルト」信奉者の姿を(識者の間にさえ)頻繁に見出すのである。

ここで、また、真のオカルトとは何であるか、という問いに戻ってみる。

とりわけ、先ほど列挙した「奇跡」のリストの中でも、原子核人工変換について言及することが有効である。それは錬金術師たちが「絶対可能である」との伝統的確信をもって追求した対象(サブジェクト)であったが、その目指す目標は、一度不可能であると「科学的」に否定され、ふたたび19世紀末に放射性元素の発見に伴って「可能かもしれない」と、理論が復活した。そして、それから1世紀も経たぬうちに、換言して、20世紀の中盤を待たずにそれは実現したのである。錬金術の絶対的目標は「近代科学」と「技術」と「支配することに対する情熱」もとい「支配されることへの極度の畏怖」と「インテンシブなグループワーク」によって実現され、世俗的錬金術師達の「夢」は現実のものとなり、思弁的錬金術師たちの警告的予言は的中したのである。私はこの長い歴史的文脈を鳥瞰するとき、錬金術の伝統は「科学革命」の以前も以後も姿や形こそ変えつつも「精神」および「大目標」として存在し、その文字通り数千年来の懸案であった「金の獲得」は現代の錬金術師たちによって、「成った」とみるのである。

錬金術の非嫡出子たる「科学技術」が最終的に人類にもたらす事態を正しく評価することなしに、その思考方法の善を宗教や思弁的錬金術が警告していた哲学的予見に対して以上に無条件に信じる人類の態度は、いまだわれわれが通俗的な意味での「オカルト」の世界に生きていることの証左に外ならず、また科学が「オカルト」のフェイズを脱したと楽観してしまう以上、真のオカルト事象の恒常的実在の把握という可能性からいかにわれわれが隔てられているか、ということを逆説的に示していると結論付けざるを得ない。

そして、これはある意味で、不思議であるとしか言いようがない。錬金術は、幾世紀もの長期にわたって見事なまで変化せずにすんだ伝統的作法の集大成である。単に秘密を再発見すればよかったはずの錬金術師が、何故に何ら新しいものを発見することもなく、それが「成る」ことをあれほどの強烈さでもって確信できたのか、ということが、である。

そして、そのことの理由と意味こそが「隠されたもの」すなわち真のオカルトの名に値する唯一の事象なのである。

(完)

戻る


© 2000 Archivelago