衒学者の回廊/園丁の今の言の葉環境を語る「資格」

主張の理解、立場への理解
May 30, 2000
 
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他者の主張に対してではなく、その主張の背景となる他者の立場に対する理解とは、その度合いが深まれば深まるほど、「反論」の余地のないものとなる。立場は立場であり、抜き差しならない理由と正当性がある。あらゆる人間は、ある立場へと生まれその立場と共に成長し人生を送る。たとえば、ある者はクリスチャンの家にクリスチャンとして生まれ、ある者はムスリムとしてイスラム共同体の中に生まれる。あるいは、ある常識が支配する時間的パラダイムの中に生まれ出る。そして立場そのものを捨て去る生き方はあり得ない。仮に「捨て去り得た」とある者が実感しても、それは「捨て去ったという立場」へ移行したに過ぎず、「捨て去るもの」さえ選べなかった。

生じうるのは、ある「立場」というものに対して、それから発せられる主張がその「立場」を基礎としてなされ、且つその「立場」自体を十分に有利にしているのか、ということであり、「その主張はその立場を救うのか」、という「立場」と主張との整合性だけなのである。ある立場に身を置きながらなされる主張がその立場を「救わない」のだとすれば、そこには混乱と自己の一貫性の欠如がある。くわえて、「立場」の強制的な変更を他者に求めることはできないが、ある立場から導き出されるべき主張の修正は可能である。そこで、同じ立場に立てる者どうしが、互いに提案する方策をめぐる正当性や有効性の議論を展開できるのである。

すなわち、まず今回の「温暖化」の討論を例に取れば、「温暖化はある」という立場をとる者同士には、それではその「温暖化に対してどう向かい合うか」という討論が可能であり、「温暖化への対策が必要である」という立場に立てる者同士は、具体的対策に関する論議に移ることができる。「具体的対策が必要だ」という立場に立てる者同士は、互いの提出する方策のどちらがより有効であるかという論議を開始することができる。そして、ひとつの方策に対して同じだけの興味を得ている者同士は、どのような「具体的手法によってその提案を実現へこぎ着けるべきなのか」という方法論に関してさえ議論を進ませることが可能なのである。この方法論にさえ、立場の一致を見る二者間というものがあるとすれば、その関係では、その問題に関してお互いの意見の一致を確認する事しか残されておらず、議論にまで発展しない。当たり前の話だが、それでも興味深いことに、最終的には立場を同じくする者同士では議論は成立しないのである。

ということは、相手の立場への理解を深めることは、議論を不必要にしていき、議論が依然として成立するということは、どこかの次元で立場を異にすることを意味するのであり、立場が違う者同士で行えることは、どのように立場が違うのかと言うことを懇切互いに説明することに過ぎない。そして「この立場に立つのなら、あなたも立ってみるならば、私の展開する主張が(その立場において)正当なものであることが判るでしょう」ということなのである。

立場そのものを否定する、あるいは、ある人物なりの全面否定は、依然として可能であるが、誤解を恐れずに言えば、それはできない。つまり、前述したようにわれわれが「状況に放り出されている」という原理から言うと、われわれはいかなる立場を選ぶこともできないのである。そこで「立場そのものの否定を禁じる」という議論の基本ルールが生じ、そのルールの前に、われわれにできることは、立場を理解する努力を注ぐのみといういうことになる。そして、理解ができてしまったその後には、その者に対する真の反論は不可能になっていく。

われわれは「相手への反論が不可能になるほどの理解」というものを実は追い求めなければならないのではないか?


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