衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

愛のある評論
(そうはとって貰えないかもしれないけど、あくまでそれを目指そうという新たな試み)
June 21, 2001
 
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つまらなかったものを「つまらなかった」と捨てぜりふを残して済まして好しとするなら、当然言われてしまった本人も面白くないでしょうし、言う本人のためにもなりません。互いに気分を悪くするだけのそんな評論なら、公表しない方がマシというものです。告白するなら、それについては幾度も私は失敗を繰り返しています。まずもって「批評」するのは、自分自身の今後の活動の指針のために役立つと考えて行う、きわめてパーソナルかつプラクティカルなものです。でもいくら自分でそう思っていても、当たり前でしょうが、なかなかひとはそのようには採りません。たしかに、最終的には自分の「利益」として帰ってくるものですし、その点で、ある種の唯我独尊に資するモノかもしれませんが、その批評行為そのものを通じて、何らかの優越を外に誇示しようなどと言う動機で行うモノとは一線を画したいのです。難しいことですが。

もし、結果として、評価された人(々)がジャッジされたと感じ、とりわけ自己否定をされたように感情的に思うとすれば、大変申し訳ありませんが、今まさに私が説明したような評論の一義的動機が、まず差し当たって存ったのだと考えて寛容に受け流してくれれば、まず第一にありがたいです。もちろん、<ご都合者>としての私が言っているのです。そんなものは冗談じゃない、と拒否していただいて結構です。万が一、私の記述が“タメになる”コメントだと受け止めていただけるのであれば、それは「私にとってのまったき幸運」であると、真っ先に、率直な感謝の意を伝えておきたいと存じます。

結局、できあがった結果(たとえば、出してしまった音)に対して、それが良いか悪いかという評価というのは、所詮、個人的な「好き嫌い」の判断に還元される面はどうしたってあります。客観的な善悪などではなく、結局はすべて「好き嫌い」なんだ、という批評行為に付き物の側面は、実はいかんとも否定のしようがありません。どんな結果であっても、ある音楽の表現をどうしようもなくつまらなかったと思う人が出る一方で、それを「良かった」と評価する者も出てくるものです。しかも、とりわけある種の音楽手法を提案をする「発案者」や、曲自体を提供する「作曲家」などの立場の人は、出来上がった結果の「善し悪し」に関わりなく、無条件に肯定的評価を下しがちであります(少なくとも表面的には)。ある面、それは致し方ないことだと了解します。何故なら、演奏者に自分のアイデアを提示し、それを実地において具現化の努力を払うよう依頼する立場にいる以上、それに努めた人をそう悪し様にも言うこともできないからです。しかし、そうしたいわば「外交的diplomatic」に成らざるを得ない、依頼者の役割や立場をいったん取り外して、純粋にどのようなことがどのような原因で起こったのかということについて、曇りのない心で推理を働かせ、可能な限り「客観的」たろう(あるいは自分を突き放そう)と努め、それを描写してみるという試みの内のいくつかが、演奏者や発案者の内部において幾ばくかでも「心当たりのある」事であるなら、それは一度立ち止まって、起こったことの事態をほんの一瞬でも反芻してみるというのは、あながち無価値なことではないでしょう。「ことによるとそのようなこともあったかもしれない」という風にです。

なによりも、そのような「評価」や判定を下す第三者自身が、別の場面で創作家の立場に立つこともあるわけで、そんなときに、どのようにして一度起こったような種類の「否定的結果*」をあらかじめ回避することが出来るのかを考える良い機会になるわけです。

* この際、絶対的な価値を持ったモノなどというものがないと考えれば、ここで言及されるところの「否定的結果」というのは、何か「より良いもの」を作りだそうと自ら努力している「temporary 批評家」の個人的判定の域を出ないことは、改めて言うまでもありません。それは、その「temporary 批評家」自身が抱いている切実である一方、あくまで個人的な重要さを持つ価値基準に拠るのです。

ここで私がこの庭園内のあちこちで、評価した上で行う記述のほとんどは、実は自分自身に向けて発信していることであると言っても過言ではありません。

心ある創作家の方々にとっては、ここで私があえて申し上げているようなことは、全く「言わずもがな」のことかもしれませんし、私が想像する以上に、評価を受け容れる度量の高い人たちなのかもしれませんが、私の過剰なまでの慎重さが私にそこまで書かせるのであります。もちろん、笑止千万なことと一笑に付していただいて構いません。むしろそのように受け取って欲しいのです。しかし、これから私が試みるかもしれない「批評行為」というのは、自己に対する無条件な“愛”に等しく、他者に対する思いやりの行為に昇華させていきたいと考える、重要な、そしてまったく新しい論述の試みなのです。


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