衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

力の行使は、この局面においても解決策にならない

September 17, 2001
 
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われわれは結局暴力を振るう可能性のある人間の潜在的暴力のすべてを力で押さえ続けることなどできない。テロに対しては、「断固として対抗手段を」という主張は、何かひとつの現実的で説得力ある政治的手法のように響くが、よくよく考えてみると、「テロ」の形態をとろうと、「国際法的に正統」的な方法をとろうと、力の行使は所詮暴力でしかなく、ひとつの暴力が、別の暴力を、あらかじめ完璧に防ぐことも、永久的に力で押さえ込むことも、どちらもできないのである。

レスリングで相手をフォールで押さえ込むのは、ほんの数秒である。それが達成されれば、このスポーツの試合は終わり、勝者と敗者が決まる。しかし現実の世界では、とりわけ戦争の実態においては、「試合」にあたる戦闘状態の間だけ続くものではなく、また勝敗が決まれば「はい、これでおしまい」というわけにもいかない。フォールで押さえつけている相手は、こちらが手を離した瞬間に当然抗戦態勢に入る。敵意ある相手を抗戦させないためには、勝っている側は永久的に“相手の肩”を力ずくで地面に押さえ続け、その“フォール状態”を維持しなければならない。これはちょっと考えてみれば分かるが、勝っている方にも分(ぶ)がない。勝ち続ける方も辛い。相手が表面上負けを認めて一旦武装解除したからと言ったって、「いずれ必ず復讐してやる」と決心する一人一人の相手の心まで支配することはできないからである。フォールの手をゆるめたり離したら、いずれそいつは後から襲いかかってくるかもしれない。

われわれが闘って勝てば、そいつは「いずれ負かしてやろう」と虎視眈々とチャンスをうかがうだろう。それは今回の事態が生ずる以前から、悠久の昔からそうである*。しかし、闘わずに誠意と正直を以て相手と関係を築くなら、そいつはおまえを負かそうとは思わない。相手を理解し、関係を築くことが「闘わずに勝つ」と言うことである。そして、本当の信頼関係は、双方に勝利をもたらす。しかし力ずくで勝った者は、負かした相手にいずれ何らかの形で負け、負けた者はいずれ何らかの形で勝つのである。負けるが勝ちとは良く言ったものだ。

* たとえば、イラクは湾岸戦争で多国籍軍に「負け」たが、彼らは何もあきらめてはいない。それは当然である。彼らの中では彼らが依然として正義であり、彼らにこそアメリカの被害者であり、アメリカを敵に回して闘う大義があると信じているからである。

「断固とした対抗手段を!テロリストに懲罰を」と主張する者の多くは、国家間のつきあいは「信頼を基礎にできるはずがない」と共通して強調する。しかし、果たしてそれは本当だろうか。国家という形をとろうが、個人という形をとろうが、規模に関わらず人間が社会生活(国際関係)を営むとき、「すれ違う未知の人物は、恐らく自分を襲う」だろうという見通しを持って生活していくことはできない。もしそのような不信を生活や人間関係の基礎としなければならないとしたら、もはやわれわれ全てが武装をして全ての未知なる人は潜在的な敵であると考えなければならない(これが銃犯罪の温床となる個人レベルでの武装正当化の論理なのである)。あまりにも明白なことだが、ここには円滑な生産的関係の可能性がない。よく考えてみれば、円滑で安定的な社会生活や生産活動というものが成立するのは、自分の関わる人間達が突然そのような“猟奇”的行動には走らないだろうという、いわば「根拠なき信頼」があるからである。

しかし、そうした無条件な信頼というものを、きわめて稀に起こる猟奇的行動(犯罪)のいくつかを根拠に「そもそも隣人を信頼する方がバカだ」と断じ、武装化こそが生きる者の当然の権利であると主張し(それが隣人との信頼を損ない、まさに疑心暗鬼の源となっているにも関わらず、武器の持っている精神的影響の側面をいとも簡単に無視し)、われわれをより強い暴力に誘おうとしているのが、こうした軍事行動推進派なのである。「銃社会」と呼ばれるアメリカを皮肉る者は、すべからく武装することの愚かさを理解しているはずであり、「国家が武装することが実は当然ではない」ことが分かっているはずである。彼らは、つねに“正義”を旗印にする既成事実化した大国の存在が、実はより危険でより大きな暴力装置であることを深く認識しておらず、また、今回のテロ発生によって「歴史のフェーズが全く新しい局面に入ってきている」と口先では分かった風なことを言ってはいても、旧態依然とした歴史観のまま、軍隊を送る事の有効性への理解を広く人々に求めているのであり、「断固として対抗手段を取るのがわれわれの努め」とオウムのように、考えなしに繰り返しているにすぎないのである。

そいつらに聞きたいが、そんなやり方で恒常的に紛争を解決できると心から信じてるのか? こうした脅威を国際関係における「避けがたい前提」であると考え、力を以て闘うことの正当性を喧伝していることは、なるほど一見正しそうだが、国家による軍事行動という、より規模の大きい新たな対抗手段が、具体的に、どのように「成功裏」に「勝利」をもたらし、われわれを恒常的な「幸せ」に導くのか、という長期的ビジョンを示せない。示せるはずがない。力でもって暴力を押さえ込むというやりかたが、如何に非現実的で、より大きな破壊と死とさらなる憎悪しかもたらさないかは、われわれはもう既に嫌と言うほど見てきたではないか。

そこには、理想や信念や哲学としての国家理念があるのではなく、まったく短期的な視野でしかモノを見ることのできない、悪徳商人的な狭窄した近視眼的な考えしかない。造りすぎて兵器庫を一杯にしている高価な大量の武器を一挙に消費し「戦争景気」でもって今の経済危機をやり過ごそうというのは、あまりに馬鹿のひとつ覚えだし、リスクがあまりにも高い。戦争という混乱をわれわれがわれわれに都合の良いようにコントロールできるはずがない。実際問題、戦争景気が本質的かつ恒常的な「経済危機の回避」をもたらした例はない。戦争が終わってしまえばまた不況で、元の木阿弥である。戦争が終わったときにわれわれの手元に残されるのは、生存者と犠牲者の区別であり、不公平であり、自己嫌悪であり、敵となった者達への憎悪である。それほど高い犠牲を払って維持するに値するものがこの地上にあるのか?

繰り返すが、暴力を振るう可能性のある人間の暴力行為は、その規模や性質に関わらず、そのすべてを力で押さえつけ、完全防止することなどはできない。それより、どうしてこのようなわれわれが「猟奇的」と考えてしまうような暴力沙汰や破壊行為が、われわれ恵まれた者達の生活の中で噴出するのか、という構造上の真相をこそ白日の下に晒し、われわれひとりびとりが“経済活動”や“国家活動”のなかで、どのような「一翼」を担っているのか(すなわち、われわれ庶民自体がどこまでresponsibleなのか)を実感することこそ必要なのではないか。

実行した者が誰であるにせよ、きわめて悲しいことに、暴力は振るわれ、怒りは表現された。彼らは明らかに怒っている。あれは単なる愉快犯などではない。文字通り自分を犠牲にしてでも、われわれ文明の在り方そのものを否定し、他でもないその文明を支える一人一人である“一般民衆”を巻き込んで、「それでも表現されなければならない」ほど、彼らは怒っているのである。それならば、あれを実行した者達が、なぜ「あれほど怒っているのか」の真相をこそわれわれは知らなくてはならないはずだ。その真相を無視して、ひとつの暴力に対してもうひとつの暴力でしか対抗できない、とわれわれは決めつけて良しとするのか? それより、われわれは彼らの怒りを一旦受け止めて、どうしたら彼らを鎮めることができるのか、こそを考察しなければならないし、あるいは、怒りの当事者の声を聞かなければならないはずなのだ。

支配者たるあなた方へ。あなた方は、「国家には国民を守る義務がある」と仰るが、私たちを本当に守る気があるのなら、暴力以外の方法でそれを成し遂げていただきたい。闘わずに“勝つ”という最高のやり方で。そうしたら私はあなた方を心から尊敬するかもしれない。今回の事態の責任がわれわれ一人一人にあることを、そして「われわれの敵が、隣人を怒り狂わせるほど愚かなわれわれ普通の人々である」真相を解き明かすことさえ辞さないなら、あなた方“権力者”に協力したって良い。こうしたわれわれの意見を「ナイーヴ」なものであるとして、一笑に付し、黙殺するあなた方自身こそが、積極的にこの事態の加害者たろうと努めていることを知っているわけです。

「われわれがここで“このような呑気な事”を言っているのは、日本がまだ直接攻撃されていないからだ」と主張する人は多いだろうが、そういうことを言う人の思いこみが、実は逆である。われわれは日本がそうした攻撃に晒される可能性はむしろ高いと考えており、そうなったときに今の合州国の民衆がそうであるように、われわれ日本の国民が戦争への熱意へと駆り立てられることは、実にありそうなことだからである。そうなったときに、何が本当に正しく何が感情論に過ぎないかを見極めるために、ここでこれはあらかじめ表現され、仲間同士の同意事項として確認されなければならないのである。


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「ブッシュよ、目覚めよと呼ぶ声あり」(『窒素ラヂカルの正論・暴論』)


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