衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

創作活動に集合的な動機付けは必要か [2]

January 7, 2002
(revised on Oct. 23)
 
English version

筆者は、芸術至上主義の人の集まるところでよく聞かれるような「日本の文化的貧困」を嘆かない。

ただし、西洋に歴史的起源を持つ芸術表現形式を、われわれ日本人が敢えて選んだとき、われわれがしばしば出会うわれわれに対する一般人の無関心が、われわれの表現者としての生き残りにとって不利であることを認めないほど、筆者は鈍感であるつもりもない。しかし自分の創作行為がいろいろな形で報われないことを「日本の文化的貧困」を理由に嘆くことを潔くしないことに、やはり変わりはない。

(これは、むろん「我が国の民族の優先的生存」という資本主義世界における国際競争力重視を問題にする「正統的」立場を度外視した議論である。)

なぜなら、日本という国土的・民族的ボーダーの中からある種のものが生まれてこなかったとしても、そうした芸術作品を必要とする人には、別の場所から必要なものが供給されるからである。「日本でもそのようなものを独自に作れるようにならなければならない」といった種類の主張を聞いたり思い込みに接すると、人類は未だにそれぞれの民族やその存在のあり方を、共通の尺度で比較し、他民族より劣っているとか優れているとかいう、前世紀的な狭い民族主義的競争の中に生きているような違和感を感じる。たとえば韓国からしか生まれない「芸術」がある一方で、日本からしか生まれないものというのは、やはりある。(それは音楽や絵画ではないかも知れないが。)そしてアメリカでは生まれないが、ロシアでは生まれるというものも当然あり、そのまた逆も然りである。

それぞれの民族や国土が、自分たち必要なものを、必要なかたちで作りだしていけばよいのだし、大なり小なりわれわれは実際にそのようにしてきたのである。そして自国にないものは輸入するという方法でそれを必要とする一部の人の需要に応えてきた。この点であえて挑戦的に言うと、このご時世で、たとえば韓国では創作可能だが日本でそれは不可能だ、というようなことをわれわれは嘆く必要がない。もし嘆くとすれば、そこには、他国ではなく、ほかならぬ自国での排他的な経済繁栄を視野に入れているのではないか、とさえ私は勘ぐりたくなるのである。文化的貧困を嘆くその背後には、経済活動としてその文化的行為が成立しない、ということについての嘆きであることが往々にしてあるからである。

私は、ちなみに現在さまざまな活動家によって批判の的にされているような“グローバリスト資本主義者”の片棒を担ぐような主張をしているのではない。もし、本当の意味で地球各地の「世界から取り残された」ローカルな民族のローカルな文化を愛し、尊重し、それぞれが真に独立した状態として保たれることが理想である(もちろん理想だ!)のなら、その究極的状態において、われわれはもはや他国や他民族の文化にいちいち関心を示す必要もない(関心を示すべきでない)のであり、同時に自国の文化的状態を嘆く理由もやがてなくなるのである。しかし、ここ最近その活動でその名を轟かせ始めている反グローバリストだって、現時点で、そこまで徹底した文化的な鎖国状態を理想状態として想定しているのではあるまい。(“鎖国”派か“国交”派かの)どちらの立場に立つにせよ、まず最初にわれわれのとってきた歴史的事実としての選択を、もうすこし公平に見ることができるはずではないのか。

確かに、これまでに日本人は「器用」でいろいろな海外の文化活動や技術を学習し模倣してきた。しかし、それは生きるための必要と、外から来た「より善きもの」を自分たちが自分で作れないはずがないという民族的な「負けん気」(自尊心)と、開国の瞬間までに培ってきた経済システムが、それを可能にしてきたとさえ言えるのである。今日においても、何でもかでも自分たち自身の手でできるようになりたいと思う必要が、これからも未来永劫あるのだろうか? 仮にも、韓国人によって作られたものを必要と考える日本人がいれば、それを探し求めて個人的に韓国に到達すればいいわけである。どうして同じものを日本人が日本国内で一丸となって作れるようにならなければいけないのか?

日本における宗教というものの有無についての評価も然りである。ヨーロッパの社会でポピュラーな宗教が日本に根付かなかったことが、日本の劣等性を意味しようか?(それより場合によっては優越性の証とさえ主張できるのである。)ましてや日本にあまりキリスト教の教会がなかったり、教会に通う人の数が少ないことをもって信仰心の薄さと関連づけて考えるべきなのか? そもそも教会という人間の組織としての宗教と我々の信仰とは分けて考えるべき事である。いずれにせよ、日本人であるわれわれは、文化的な土壌として、独自の路線を歩んですでに久しいのである。

社会的・時代的制約や周囲の無理解という“不幸”は、多くの妥協を許さない質の高い創作を志す者にとって、最初のチャレンジであったし、今後もそうだろう。むしろ自分が真の表現者になるための契機である。様々な制約的条件を超え、作品の完成に漕ぎ着けることができたとき、創作者に与えられる贈り物(ギフト)はより大きくなるだろう。そのためにこそ、創作家達は「あともう一日」と息をし続けることができ、周囲のごく僅かな人々の支持に大きな意味があるのである。


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