衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

偶然と必然、あるいは、必然と「必然」[1]

July 16-17, 2001
 
English version

神秘を遵奉する人の語る「必然」と本来的字義の意味での必然との間には大きな距たりがある。時としてわれわれは、夢見がちに「この世には何の偶然もない。すべては必然である」などと語るひとに出会うことがある。そのときの「必然」とは、われわれの理屈で説明できない神秘的事実としての「必然」を自分は悟ったのだ、というほのめかしがあるのだと思う。いいだろう。そのようなことはあるかもしれないし、確かに「正しい」かもしれないが、それもやはり恐らくわれわれのインテリジェンスの及ぶ範囲での「観念」に過ぎないかもしれない。そもそも偶然・必然の言葉の使われ方の中に、われわれの価値観や意味の感覚性の反映があるはずなのである。

そもそも、われわれが「必然」を口にするとき、発言者の意識がどこまでおよぶ範囲での「必然」性を問題にしているのだろうか?

私は、この世の有様を語るに当たって、すべてを必然であるという立場で説明することも、偶然に過ぎないという立場で説明することも、どちらも“理論”上可能だと考える。この世のすべてに不思議はないという、すべて物質的な因果関係だけで説明できるという主張が存在するのは、宇宙開闢の最初の運動(これが謎なんだが)の以降に起きたできごとは、すべからく、起こるべくして起こっている(という意味で)必然の連鎖であると言い切ることが可能だからである。つまり物質的なある運動(actions, events)とそれに引き続いて起こる諸々の反応(reactions)の長い長い連鎖(chains)がわれわれの住む世界である、という説明の仕方である。これがすべてが必然でありつつ、しかも不思議は何もない、という世界観である。つまりどう転んでも、それは宇宙が始まったその瞬間にすべて決まった宿命の道筋をわれわれの世界が辿っているという宇宙観である。そうした宇宙の捉え方自体が正しいか否かに関わらず、こうした捉え方の中でこそ、「すべては必然である」と表現されるのが、本来の意味で正しいのではないかと思う。

しかるに、そうなるとわれわれの使う偶然という語は一体何なのか、という話にならざるを得ない。言ってしまえば、偶然という語の方こそが、われわれ人間中心の都合に照らして、ある出来事を自分に捉えられる判断力に照らした上で、「それには意味がない」と断じることで判断されることである。あるいは、この宇宙で生起しているすべての現象が、結局ランダムに起きている偶発事に過ぎない、と、宇宙に対するわれわれの(反)価値観を積極的に表現しているのである。一方、そうした偶発時はひとつもなく、人間の(あるいは生命の)都合にとって、全体として見れば何一つ不都合はなく宇宙の出来事は起きているという考え方が発生するのである。積極的な宇宙に対する価値観の表明である。これは、宇宙のあらゆる出来事が機械的な必然であると言っているのではなくて、われわれの住む世界が、われわれにとってあつらえたようなモノとして「必然」的に用意されているという楽観的な世界観なのである。そこで、最初に定義した必然と、ここで定義した「必然」のふたつが全く別モノとして存在していることが分かるのである。

つまり、人間の都合で世界を眺めたとき、われわれの中で、宇宙のありようが自分たち生命にとって、「必然」的に「あつらえた」ように動いている、と考えるオプティミストと、自分の周りに起こるいろいろなことが結局善きに付け悪しきに付け、終始、accident(偶然)でしかないという冷徹な観察者との二者がいると言い換えることもできる。

どちらが正しいのか、という話になれば、これは要するに世界とわれわれの間の関係をどのように意味づけして考えているのかの違いであって、どちらかが絶対的に正しいとか言うことはできないのではないかと思う。そして、世界とわれわれの間の関係をどう捉えるかという事である以上、宇宙の運命に対するわれわれの信仰の問題なのである、と言い換えることができると思う。それは神という全知全能の人間にとっての絶対善の在・不在に換言されるかもしれない。

つまり、宇宙開闢以来起きているすべての出来事は、<理>にかなった出来事の連鎖である以上、当然本来の意味での必然であるが、起こっている諸々の出来事をわれわれの生命の<利>の観点で捉え直したとき、やはり偶然であるとしか考えられない(都合のいいことばかりではない)というのが、現代という時代においてはニュートラルな世界の見方であるかもしれない。そこにはもちろん信仰はない。しかし、宇宙で起きている出来事を、われわれの生命の<利>の観点でみても、やはり「必要なことが必要なときにちゃんと起こってくれる」と信じることができれば、偶然/必然の観点から区別するなら、そのひとは、やはり括弧付きの「必然」を(めでたくも)「感じ取って」いるのである。

だから、偶然・必然を口にする人がいたら、特にその人の口にする必然がどのような意味での必然であるのか、すなわち「事の起こり」をどこまで遡っての話なのか、意志や価値観を度外視した意味での必然なのか、生けるものにとっての「必然」なのか、等々を確かめなければならない。つまり、括弧なしの必然なのか、括弧ありの「必然」なのかを考えることが、それを口にする人が改めて検討しなければならない<課題>なのである。

「ランダム」とは何か→


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