衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

偶然と必然、あるいは、必然と「必然」[2]

July 19-23, 2001
 
English version

前回の主張の中で、本来の<必然>という言葉こそ神秘から遠い概念であり、偶然という言葉こそ、むしろ「人間の意識の及ぶ範囲の限界を明確にする」観念である、というような主旨を述べた。つまり、あるふたつのイベントの“共時”的な生起を、相互に無関係なモノであると断ずる態度、たとえば「PとP’のふたつの“近似”の出来事が、同時にAとBの人物に起こった」とき、それが「たまたま起きた」ものである考えて、“積極的”に意味(や不可視存在の意図)を排除する態度である、みたいなことに言及した。いずれにせよ、必然という概念は、人間の意識の在・不在に関わらず自立的に存在しうるものでありながら、偶然にはどうしたって、起こった出来事が無意味であるという価値判断を下す主体としての人間の意識の存在を想定しなければならないのではないか、と思ったのである。

さらに、その人間の意識の存在があって初めて成立される「偶然に非ず」を表す言葉として、「必然」という言葉が採用されたのではないか、という気がするのである。人間がいようといまいと、あるがままのモノとして変化していく宇宙という存在の有り様は、まさに括弧「」なしの必然なのであるが、人間の意識に捉えられ、生けるものの都合によって合理化された意味体系の中に組み込まれているのが「必然」なのである。非偶然と呼んでも良いかもしれない。括弧「」なしの必然は、意志があろうとなかろうと“事の発端”以降、無慈悲な勢いで現在も進行しつつある宇宙の内側の出来事であり、括弧ありの「必然」は、われわれの人生に関わりのある狭い範囲での必然なのである。

同じ本を手にした赤の他人のAとBの二人が、5分後に同じ本屋のレジのところで鉢合わせし、それがきっかけになって恋に落ち、やがて付き合い始めるようになる。この事態だって偶然と必然のふたつの言葉で説明することができるワケだ。

(A)唯・偶然信奉者
同じ作家にAとBの二人の人が興味を持ったのは、「たまたま偶然」である。その二人がいつでも行けるはずのその同じ本屋にいたのは、「たまたま偶然」である。その二人が同じ本をその本屋で手にしたのは、「たまたま偶然」である。その二人が両方ともその本を買うことを決心したのは、「たまたま偶然」である。その二人が同じレジで鉢合ったのは、「たまたま偶然」である。同じ作家に興味を持った事の発端から、レジで鉢合って出会うまで、何から何まで偶然である。

(B)偶然/必然ブレンド信奉者
同じ年に生まれ、同じような境遇に育ったAとBの二人が共通の同時代作家に興味を持つことは、「ある程度まで必然」である。その二人が、余り有名でないその作家の本が手に入れられる可能性の高いその本屋を知っていたのは、「ある程度まで必然」である。二人とも同じ作家の本を手に入れようとしてその本屋に赴いていたのだから、同じ本を手にしたり、買うことを決心したとしても、それは「ある程度まで必然」である。しかし、同じ時刻に同じレジで鉢合ったことに関しては、偶然(pure chance)である。必然と偶然が彼らを結びつけたのである。

(C)唯・必然信奉者(無機質的必然信奉)
Aがある作家に興味を持ったのは、彼の尊敬する家庭教師の先生が推薦してくれたからであり、その本に興味を持ったのは必然である。一方、Bがその作家に興味を持ったのは、亡くなった父が生前大事にしていたと人から聞かされたから、いずれその本に出会うのは必然であった。その日、Aが本屋に行ったのは、期限日の迫ったギフト券を貰ったからで、貰った2、3日以内に本屋に出掛けたのは彼にとっては必然だった。なぜなら、前日は大雨が降っていたし、次の日は予備校で模試があったから、その日に行くことになったのは、自然の成り行きだったのだ。一方、その日、Bが本屋に行ったのは、その前の週、父の十三回忌があって、久しぶりに会った父の妹が、やはり父の影響でその作家を贔屓にしていたという話が出たからで、何か読む本を探していたBにとって、ようやく暇になったその次の週の週末に本屋に行くことになったとしても、それは成り行き上必然だったのだ。Aがその時間に本屋に立ち寄ったのは、30分後にアルバイトに行くことが決まっていたからだし、本屋に行く直前まで、家庭教師と一緒に勉強をしていたから、それよりも早く行くことも、遅く行くこともあり得なかった。その時間に彼がその本屋にいたのは、必然だったのだ。Bは、入院中の祖母の見舞いに行っていて、面会者が病院から出る時間までずっといたので、本屋に着いた時間がその時間になったのは、必然だったのだ。このように、ありとあらゆる二人に起こった出来事は、宇宙開闢!以来の宇宙全体の連鎖的運動の影響を受けており、現在起こっている以外のカタチで現れるはずのなかったことであり、起こるべくして起こっているものなのであり、すべては必然なのである。しかし、それが二人を結びつける結果になったことなどの意味は、人間が勝手に偶然だ、必然だと言っているだけのことであり、それ自体には何の意味もない、ただの連鎖的な出来事の流れでしかない。

(D)唯・「必然」信奉者(有機的「必然」信奉)
同じ年に生まれ、同じような境遇に育っても二人が共通の作家に興味を持つ等と言うことは、決して偶然ではない。これは最初から彼らが出会うために仕組まれた「必然」であった。ある日その運命の時計の歯車が最後のアラームを鳴らすべく、軋み始め、二人がどうしてもその日にその場所でその作家の本を手に入れなければならない、と感じたのである。したがって、その日、同じ本屋で、彼らが同じ本を手にし、そのために二人が出会い、愛し合うに至ったのは、運命のお導きであり、宇宙の仕組んだ摂理であり、何から何まですべては「必然」であった。そして、二人の出会いは、単に二人が出会って幸せになるまでの間の導きだけではなく、その後続いていく子孫の誕生を始めとして、運命によるある深遠な計画のために用意されていたのである。したがって、この二人は遅かれ早かれどこかで出会わなければならなかったのである!etc., etc.

こうして見ていくと、何かの出来事を必然であると感じるとき、物事の因果関係の連鎖に対してそれを想像する人の意識が及ぶ範囲によって、必然という語を異なる意味で各自が使っていることが分かるであろう。一方、他ならぬ偶然という言葉が、人間の価値判断抜きにはあり得ない、意味を捉える人間の意識の範囲を超えた瞬間に発せられる言葉であることが分かるであろう。

さて、くどくなるのでプレビューはこのくらいにして、今度は、ランダム(でたらめ、無作為)というひとつのモノが概念上のみならず、実在するのかと言うことを考えてみたい。あるいは、われわれは真の<でたらめさ>を造りだすことができるのか、という問いである。

「ランダム」とは何か→
無機的必然の世界へ侵入を図ろうとする有機的<非必然>存在→


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