衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

何を、どのように発信するのか
June 7 - July 5, 2001
 
English version

最近の話です(と言っても早一月ほど経ってしまいました)が、ネット生活の中で、コミュニケーションの規模(量)と内容(質)に関わる意見交換がありました。われわれは一体なぜインターネットや出版などを通じて自分の意見やその他諸々の「作品」を世間に発信するのかといった辺りで始まった話題です。立場もわきまえず、いろいろな文章や発言で常日ごろから大規模コミュニケーション産業の行っている所行を批判するような言辞を発しているくらいの私ですから、「私の見解」なるもののおおよその内容は、勘のいい人なら見当の付くようなモノかもしれません。

ご多分に漏れず、私は「量より質。多くの受容者より、本質的理解をしてくれる少数者。こうした<ひと>、<こと>、<もの>に期待する」みたいなことを私は主張していました(もちろん、そんなにはまとまっていませんでしたが)。その中で、私は『一点から直接つながりのない不特定の大衆に対して拡声器のようなツールを使って「放送」する』ことの空しさを主張(というか同意)し、ある意味、当たり前なお話ですが、われわれ各自の生活や作業などを通じて関わりが持てる比較的狭い“コミュニティ”における、より親身(intimate)で暖かな「身内」のような関係においてこそ、より本質的なコミュニケーション成立の可能性が高く、それを図る努力の甲斐がある、といった辺りを主張したのでした。もちろんそれには、それを裏付ける?ような経験やら最近自分に起こっている信条そのものに影響を与えかねない?個人的体験云々があります。

若干の手直しが入っているのですが、ある場所で以下のような意見投稿をしたのでした。(July 5, 2001)


どういうかたちで、われわれはコミュニケーションの努力をするべきなのか、誰に対して、どのような「内容」の発信努力を図るべきなのか、ということを根底から問題にしたいのです。私は、すでに幾分記してしまっていますが、いわゆる不特定多数の「読者」とか「オーディエンス(聴衆)」というものに過大な期待をしていません。ものを書くのも、それをネットにアップするのも、酒を飲みに行くのも、音楽をやったり聴きに行ったりするのも、愛する人の耳元に囁き続けるのも、結局個人対個人というきわめてパーソナルな、あるいはパーソナルに近い関係の中にしか、コミュニケーションの本当の意味がないのではないか、という考えに徐々に傾きつつあるからです。

一点から直接つながりのない不特定の大衆に対して拡声器のようなツールを使って「放送」するのではなくて、あくまでも本質的にインタラクティブな直接のつながりのある“糸”ですべての個人が、何らかの隣人とつながっているという、いわば“巨大な蜘蛛の巣”の糸のようなものの上にしか、所詮、本物の人の生きる世界は成立しないのではないか、という考えがあります。そして、自分のすぐ隣に接して存在しているごく僅かな幾人かの個人(ひょっとするとひとりに対して最大でもたったの4〜6人位の他者*)しかいないというような図式もあるように思えるのです。

*「蜘蛛の巣を平面的に捉えれば、自分以外の4人。三次元的な(スポンジのような)蜘蛛の巣を想定すれば、自分以外の6人。」という感じの勝手なイメージです。

しかも、そのもっとも近いつながりのある他者に対してさえ、われわれは本当のコミュニケーションを図れないでいる実態、あるいは図ろうともしない<離れ小島>として孤立した個人達が、背中合わせに寄り添っているのが見えるのです。そのときに、はるか遠くの見たこともない人に届こうと、無数の瓶にメッセージを詰めて海に放つ時間を費やすことと、いま自分の眼前にいる人ともう少し「まとも」な対話をしてみようとする選択のふたつがあるのなら、どうして後者をもっと真剣に考慮しないのか、という疑問です。(もちろん、あなたにとって、私という人間が相手として不足なのであれば、残念ですが、受け容れざるを得ませんけどネ。)

果たしてそれで良いのだろうか、もし世界というものがもっと緊密な<隣人との関係>の連鎖として直接間接的につながっているだけだとしても、人間同士の気持ちや感情の動きは蜘蛛の巣が振動するように、隅々まで伝わっていけるのであり、その振動がいまよりほんの僅かながら円滑に伝わるだけで、世界はいまよりもっといい場所になるのではないか、という思い。これって愚かでナイーブな幻想でしょうか?

私は、だから、一番身近なところから始めようと思い、ウェブのローンチングにしても、特定の顔の知っている人々に対してまず読んで貰おうと思いました。一見ジェネラルな主張をしているようで、かなり具体的な読者を想定して書いていったものです。もちろん、河岸でfishingをしているように、まれに掛かってくるものもあります(ネットを見て連絡くれた方、失礼な言い方ですみません!)。そして、当然そこからちゃんと発展していく関係というものがあったって全然構いません。でもわれわれの生涯時間が限られており、本当の意味での返答ができないほどのサイズの「聴衆」を相手に、われわれは本当の満足のいく相互コミュニケーション(satisfying mutual exchange)ができるのだろうか? 生意気を言うようですが、これは、あらゆる“表現”的創作に関わっている人が一度は考えてみて良い課題だと思います。モテモテになるのは、気持ちがいいかもしれませんが、それってlarger than lifeって感じがします。

もしそれぞれの個人が自分以外の(たとえば)4人の他者と関わっているとして、その中のたった一人にでも、あなたのもっとも大事な部分をシェアして何かを伝えるってことができたら、それだけですごいことだと思うのですが。(June 7, 2001の投稿原稿に加筆)


でもそれに対し、ある人物からこれまた個人的体験によって裏付けられた別の意見があったのです。

<< ラジオから流れてきた1曲、1冊の本の1行の文章に人生を大きく動かされるような経験をしている者としては、『一点から直接つながりのない不特定の大衆に対して拡声器のようなツールを使って「放送」する』ことだって、意味はあるんじゃなかろうか...。>>

なるほど。そういうことが自分になかったと言えばもちろん嘘になります。初めて好きになったポピュラーミュージックはラジオから鳴っていた。私が「実存主義」思想を知ったのは、メジャー出版社から翻訳・出版された書籍からです。[← ここへの返答は別途展開予定]

[↓ここから今回の主旨が始まります]

ただ不特定多数の人に向けられたものを通じて自分が何か善いものを知ったと言うことと、自分が不特定多数の人に向けるものを発信すると言うことは、わたしにとって実は同じものじゃないんです。思想にしても何にしても、あるモノが不特定多数に向けられたものである以上、それはある多数の人間のグループを大雑把に言って「2つのグループに分かつ」からです。

それを受け容れる人とそれを否定する人の2つにです。

あるいは、音楽ならそれを善いものとして受け取る人と詰まらないものとして受け取る人を作るわけです。もし音楽を聴いてそれから「自分の人生を左右する」ような内容を受け取ったとすれば、そのとき、その音楽が伝えようとしたことを受け容れる人達の一群に自分が連なることを、同時に意味するわけです。

しかしそこには、本当にそれが「自分の人生」なのかという問いも可能になるわけです。

いきなりold-fashionedな話ですが、例えばマルクス主義!が世界を救うのかと言えば、多く見積もってそれを理想であるとして受け容れ、その思想に連なることを「いさぎよし」とする全世界の1/2の人々だけを救うことにしかならないわけです。(半分がそうだ、というのはある意味で象徴的にそう言っているだけで、何ら科学的裏付けがあって主張しているわけではありません、念のため。)実際は2001年時点ではその人達さえ救うこともできなかったことが、かなりの「確かさ」で分かっているわけですが。キリスト教やイスラム教に限らず、仏教でも「人間の運営する組織としての宗教」としてはきっと大なり小なりそういう運命を内包していると思います。それらは、残念なことに、それを信じるある一群の者たちだけを救うに過ぎないのです。

しかし、一体不特定多数に呼びかけることで、ひとかたまり味方のグループとそれと同じくらいの数の敵をこしらえて、われわれはそれでどうしようというのだろうか、という問いに逢着したわけです。

より多くの人を虜にした宗教家や思想家や政治家や音楽家は、聖人、偉人として歴史に名を残すかもしれません。しかし彼が魅了したのと同じ位の数の敵、あるいは誤解者を1セット作って世を去らねばならないのです。だから、“もっとも偉大”な思想家や聖人は、同時に“もっとも度し難い”罪人でもあるわけです。有名になりたいと天真爛漫に考えて、その道を歩んでいく人々は、ある意味でかわいいモンです。そんな動機で有名になろうという人はある意味でharmlessだ(害がない)からです。大いに「有名」になって人気をとって下さい。

それより、ある人の抜き差しならぬ正義(強い感覚を伴う“正しさ”sense of righteousnessへの傾倒)や天賦の能力によって、ある種歴史的必然として「偉大」になっていってしまう人物は、今私が述べたようなパラドキシカルな運命を辿らねばならない。一体全体、この世の何処に、人類半分ではなく、人類全体を救い得るような救済が存在するのか。

もし、たとえば世界を白と黒で色分けするとすれば、実際問題どんなものでも白か黒かという単純なものではなくて、グレイなエリアがあり、それが無数の連続的グラデーション(段階)の中で存在している。それが真相でしょう。そしてその無数のグラデーションの機微を理解・把握し、説明すると言うことは、どんなに単純化しようとしても数冊の重厚な本くらいのものになってしまったりします。より正確を期そうとすると、どんどん記述は複雑になり、その上誤解を避けようとするとさらに入り組み、冗長となり、そのことを突き詰めるやり方はやり方で、それこそ広い「不特定多数」の人による受容を却って遠ざけることになる(これって、おそらく私の辿っている道です)。なぜかってそんな複雑なものに付き合おうと思える人がより少なくなるからです。つまり、より正確に伝えようという発信者の側の一層の努力は、受け手側からすればより選択的なものとなり、結果として大概の場合が「自分とは関係のないもの」としか映らないようになるのです。そうと知らずに図らずも行われた“専門化”がより狭い人にしか到達できないという結果を招くのです。それは説明の“簡素化”や主張の“単純化”、あるいは“一般化”といったものの逆の方向です。

もちろん冗長を避け、分かりやすく単純にすれば、それはひとかたまりの仲間(あるいはfan)を作るでしょう。でも、それはあなたの心の襞を理解できるような人を作らない。あなたを慕って来る人は、数の上で増えるでしょうが、あなたはその人たちにおそらく頼ることができない。あなたは単純且つ明快なロジックで人を魅了し、そのために人気を取るでしょうが、成功すればするほど、実は孤独の内に死ぬことになるのです。

最も有名(あるいは悪名高い)指導者が、そのポピュラリティに反して孤独に打ちひしがれている姿というのは、どんな「偉大」な個人も、例外なくある切実さとそれを共有したいという「あまりにも人間的」な感覚からさえ逃れられないという基本性向を持っているせいなんだと説明することもできるでしょう。それはおそらくどんな強欲な商売人であっても、ヒトラーのような独裁者でも、マリリン・モンローのような超有名人でもおそらくそうなのです。

表現されたものはどんなものでも、それが多数の人間のもとに届いたとき、それは「人々を2つのグループに分かつ」と言いましたが、もちろんそれに対する反論もあるでしょう。「分かちもするが、つなぎもする」とか。あるいは、「敵も味方も作らないそういう<表現>というものがあるはずだ」と。あるかもしれません。しかし、もしそういう社会の精神の二分化現象が起こらない類の「表現」とは、おそらく実は主義主張と呼ばれるものでさえなく、主張されているように見えて、その実、結局はなにも主張されてさえいないんだ、ということにならないか。人の間で何かを主張する、他人の人生に関わると言うことは、しかるに、そういうことなのではないのか。そして、つなぐものと分かつものとの間で身が引き裂かれていく。

私のコミュニケーションに関わる探索の道はまだまだこの先長そうです。


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