衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

社会保障と生き甲斐は別物

June 27, 2002
 
English version

どこまで社会保障や福祉が行き届いているかというのは、国家からすれば自国が如何に“洗練された国”であるかを内外に知らしめ、国の体制が安定で、かつ国民に対してフレンドリーであるかを示す指標にはなるのだろうが、そうした国の制度の行き届き方をありがたがったり、無条件に良いものとして評価するということと、よりよい自分自身の生の問題(実存)は全く別物である。

今後、国がわれわれの各個人の最低限の「生存権」を保障し続けることはできないだろう(それどころか、どうせ国家が進んでわれわれの生存を脅かす挙に出るだろう)という見込みからすれば、ここでの発言は、われわれが向き合っている現今の社会の問題と直接つながりがないばかりでなく、そういう意味では今後も心配する必要もないことかも知れない。

しかしここで筆者が言いたいのは、そういう「行き届いた」場所に自分がいることで安心してはいけない、という一点に尽きる。

(法律や権利といった)社会保障等が「行き届いている」という事実を知って、その国に属する「国民としてのの権利」を最大限活かす(ということは寄生して吸い尽くす)ことを考えるより、どうやって退屈せずに自分自身を精神的に満足させるかということに関心を集中すべきである。むしろ「オレが払ったものは、必要なときにきちんと返せ」という論理でもって納税者の当然の権利として「権利」を主張する方が、解りやすく、考え方としていさぎよいのだ。だから納税をする力を持たない者が、その国に生まれてきたから、という理由で「無条件に保障される」ことを当然の権利のように主張するのは、感情的には理解できるが理屈上ではおかしな話だ。(国家がその者をそこへ産んだのではなく、彼の親が産んだのだから。)現実問題として、その保障はその当人以外の人々から集めてきた税金なり労働で賄われているからである。国家が玉手箱から手品のように保障に掛かる費用を無尽蔵に取り出していけるわけではない。

そして、さらにそうした「権利」を主張するひとに思い出して貰いたいのは、望むと望まざるとに関わらず、「権利と義務はワンセット」なんだということである。

すなわち、国家からの無条件の保障を基本的な人権として主張する者は、自己の無条件の被支配(国家への忠誠)を進んで買って出ているようなものである。国家が個人に無条件にサービスして尽くすのが当たり前であると信じられるその人は、国家に対する無条件の義務(「国家に尽くすのは当然だ」というような)も同時に主張するかも知れない(あるいはするのが道理であろう)。でなければ、どうやって個人に無条件に尽くす国家をわれわれが支えることができよう? われわれはこうした国家のすでに膨れ上がっているサービスの領域をさらに拡大するのではなく、より小さなものにする努力をこそ払うべきなのではないか。

国家はわれわれに向かう暴力装置だが、保障を当たり前のものとする考え方は、国家に群がる個人による暴力である。

今日すでに在るカタチでの最低限の社会保障なり福祉制度など、もちろん多くの思想家の理想や政治活動家や運動家の弛まぬ努力によって獲得されてきたことであろうことは認める。本当にそうした制度を必要としているひとにとっては、そうした努力に対して多くの謝意を覚えるだろう。しかしその場合、それら「権利」を勝ち取ろうと邁進した活動家達にとってこそ、その努力が意味のある(あった)ことであり、その真の意義は、実のところ獲得した成果自身とは関係なく、それを得ようとした活動家の行動の渦中にこそあるはずである。これはまさに皮肉なほどの逆説なのである。裁判に勝ったあかつきに人並みに幸せになってやろうと努力しているひとが、法廷闘争そのものに生き甲斐を見出すようなものだ。あるいは、自由を獲得するための革命のただ中に自由の感覚を覚えるというやつだ。しかしそれこそが人生の奥義、生き甲斐の秘密、というやつに他ならない。

いずれにしても他人の努力によって得られた果実など、自分の幸せの当然の手段とはなり得ないのである。先にも言ったように、納税者として当然の権利とは(おそらく)言えても、それはむしろ「売り買い give and take」の問題であって、人間の基本的人権や自身の幸せのための必須条件のどちらでもないのである。私の幸せは私のエゴによって私自身の行動によって獲得されなければ意味がないのである。われわれ支配される側の人間は、奴隷らしく、立場の絶対的不自由の明確な認識から思惟と行動を開始しなければならないのである。奴隷根性と言われそうだが、われわれは奴隷根性を持っている、のではなく、奴隷なのである。

権利と義務の関係はまさに借金と同じだ。貸し借りのないところに債権者も債務者もいない。そして債権者なしに債務者はいないし、債務者なしに債権者もいないのである。あなたが国家に対して権利を主張するなら、国家はあなたに借りがあることになる。あなたが国家に対して義務を感じるなら、あなたが国家から借りがあるのである。まさに権利と義務は貸し借りのあるところにのみ発生する問題である。そんな問題のある関係(それを社会契約を呼びたければ呼ぶが良い)は、できることなら国家となど結ばない方がましなのである。借りたら取り立ては厳しいだろうし、こっちが貸しても「いずれ返す、だからもっと貸してくれ」と言われるくらいがオチなのである。(ついでに言うなら、社会契約を実現するのは気心の知れた者同士で作ることの出来るごくごく小さなコミュニティに他ならない。)

話を戻そう。繰り返すように「すでに誰かによって獲得されている」らしい権利の存在の“歴史的事実”、そしてそうしたものが実在すると信じているわれわれの幻想的な現実認識にも拘わらず、各個人個人がどのようにそれぞれの人生に立ち向かうのか、ということには何のつながりもない。むしろ保障がより行き届いている国に於いてこそ、個々人の生存のための闘争を経る必要がないため、自己の生存が無条件に肯定されているところ(基本的人権)から「人生」をスタートするわけであり、そこにこそわれわれ豊かな者達の不幸があるとさえ言えるのである。すなわち、獲得感・達成感の欠如が、われわれの生き甲斐にかかわる根本問題なのである。

スカンジナヴィア諸国のような福祉の行き届いた社会というのは、早い話が、折衷主義的ではあるが、社会主義国家のようなものである。資本主義社会の洗練が極度に進んでいって、富める者が多くの納税をして広く人々に分配・還元することで不平等をなんとか表面的に解消していくという方向である。まあ、言ってみれば、富める者が会ったこともないし感謝もしてくれない多くの者を養っているわけであり、世話を受ける者は心のどこかでこれで良いのだと懸命に納得しようとする。良く言えば、社会主義の理想から多くを学んだ洗練された資本主義社会、悪く言えば、個人レベルの努力が報われない、やる気の失せる社会である、となる。このような社会に大きな社会変革もなければ革命の精神もあらかじめ摘まれているのである。

われわれは選択の岐路に立っていると思う。不便であり、また将来の不安もあるが、自助努力のみが有効であるという社会を選ぶのか、自己の努力や才能は評価されないが「平等な世の中」で「義務」を果たしていく社会を目指すのか。実は当面の方向性ははっきりしている。もちろんそれは社会保障制度である保険料や税金など膨大な圧迫(義務ではない)の下に国民としての役割を従順に果たしてゆくという方向である。恐ろしく高い消費税や所得税。自分たちにはついぞ回ってくることのない年金制度への膨大な投資。人生の目的を失いながらも生かされている虚無者(ニヒリスト)の集団。

こうした発言は、あたかも私が人権というものを軽んずる見解を持っていると理解されそうだが、人権の存在こそがその起源や根拠の曖昧さから一度疑われてしかるべきものである。人権があると高らかに宣言はされたものの、その根拠を示すのは難しい。むしろ、そうした他人の過去の努力の成果で自分の生存があらかじめ肯定されたものとして生きるのではなく、そもそもそのようなものはなかったという前提で生きる努力をする方が、幸せはより近くにあるということになるのだ。


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