衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

“解放”という目的は暴力的手段を正当化したのか?
映画『カンダハール』:踏み絵としてのドキュメンタリー

February 13-18, 2002
 
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「目的は手段を正当化する」という言説が正しいのだとすれば、他でもない今回の米英によるアフガニスタンの爆撃、タリバン勢力の辺境への撃退/殲滅は、(ある立場に置かれた人々にとっては)“タリバンの支配下で抑圧されていた女性をイスラム原理主義の抑圧とブルカから解放した”ことになる。

映画『カンダハール』(制作2000年)を観終わって、新宿武蔵野館を出た私の心境は正に混乱そのものだった。それは、戦争や内戦という直接的暴力を映像によって全く描かなかったからというわけでも、成人女性のブルカ着用の実態を視覚的に捕らえたからだけでもなかった。欧米の暴力によるアフガニスタンの国内紛争の解決を呼びかけるものと読めたからでももちろんなかった(言うまでもなく、そのようなことを意図したわけではないはずだ)。が、映画にはアフガン女性の「ブルカからの解放」というのが、当時の「当面目指すべきアフガン人の夢である」というのにも等しい明確なメッセージが、疑問を差し挟む余地なく、含まれていたからである。ブルカがどのようなものであるかを知らずに、「一体私たちはアフガニスタンを知っていたのか」という自己批判に身を委ねてしまいそうにもなるのだ。

この映画がおそらく多くの米英による爆撃を反対したであろう心理的に反戦傾向のある人々にこそ多く届いたであろうから、こうした受け手の中でも曇りのない目で見ることのできた人には、最低でもどのようにこの映画の役割を認めるべきかについて、そして今回の爆撃という事態との関わりについて、より一層の思索を強いたはずだし、中でもいわゆる「国家や民族の自決」の崇高性を信じる人によっては、ある種強烈な「裏切り」として受け取ったとしても不思議はないと想像する。だがしかし、この映画は昨年合州国で起こった9月11日の惨事や、それに続く米英による空爆に先立って完成していたものである。であるからこそ、その映画のもたらす効果の多面性を考えるに、どうしても多層的な思惟を避けることができないのだ。

もちろん単なる一鑑賞者に過ぎない私以上に、この映画製作に携わった人々の心境こそが複雑であろうことは想像に難くない。今彼らが言えるのは、「爆撃が我々の望んでいた手段ではなかった...空爆後もタリバンがいなくなったわけではない...」という半ば言い訳じみた言葉に聞こえてしまうからである。だがそれは言い訳などではなく、明瞭に映画の中で説明されてはいなかったかも知れないが、正に彼らが主張したかった論旨だったのではないか。そして「国際社会から見捨てられた」人々へ注意を喚起すべく作られたはずだった。

仮にも、アフガニスタンへの爆撃を積極的に進めた者たちが、その国内における人々の「抑圧」の実態をこの映画を通じて知ることのできるほどにすでに知っていたのだとすれば、彼らは自分たちのやることの「正当性」に関して自信を持っていた可能性がある。むろん、爆撃の一義的な目的は、こうした人々の「解放」などにはなくて、自国の(あるいは資本主義社会全体の)利益の追求にこそある。しかし、その利益追求の過程で生じる、飽くまでも派生的な「解放」という副産物が、その国の人々の利益(民主的理想)と一致した側面があったということを、映画を見る限りにおいてやはり否定できない。仮に戦争の(負の局面ならぬ)“正の局面”が、女性の解放であったとしても、それは生命を傷つけることが一大前提である戦争という暴力の持つまったくの一面にしか他ならない。それが極めて大きな“正の効果”をもたらしたとしても、暴力の持つ根底的な性質というものを差し引くものではない。ここではやはり、長期的な視点で見て「目的は手段を正当化する」ことはないという最大の前提を忘れるべきではない、という思いを私は映画を見終えて改めて強めたのである。

監督のモフセン・マフマルバフ氏が『カンダハール』を作ろうとした動機というのが、本当に「アフガニスタンが世界から見捨てられてきた地であるということを広く世の中に訴える」ことだったとしても、事実は、この映画がアフガニスタンに対する人々の関心を「ついに呼び集めた」のではなく、今回の戦争(と言うよりは一方的な爆撃)が呼び集めたのであり、この戦争という理不尽な暴力行為こそが人々の関心を集めることに働いたのであった。そして、ついには「ブルカからの解放」という象徴的な到達地点は、暴力装置である戦争によって実現されたのであり、他ならぬ今回の戦争という不条理が、皮肉にも映画館に多くの人を動員する結果となった。ここでもやはり、「ミネルバのフクロウは黄昏時に飛び立つ」という悲観的な原則が見出されたのであった。

この映画を見て何かを「納得」できたり、ましてや楽しんだりできるという人がいるとすれば、その人の心を私は容易には理解できないだろう。われわれの認識の転換を迫るものに出会って楽しいと呑気にも感じるはずがないのである。

誤解を畏れるので、ここで改めて断っておけば、私がここでこの映画を「後から来た戦争」との兼ね合いという一点に焦点を当てて語っているだけである。この映画にあたかも以上のような観点から観賞すべきだと印象づけるものだったと思われるのではないか、と想像するのであるが、監督の名誉のためにいま一度強調しておくと、映画自体はそのようなものではない。そうしたこと以外にわれわれの神経を向けるべき箇所(学校が終わり家に帰される少女たちの表情、鮮やかなブルカを身につけた女性たちの一団の忽然たる登場、足を失った男たちの集団、等々)がこの映画には多々ある。しかし、これらの映像はこれから映画を見るかもしれない皆さんの各自の心の目で捉えて頂くしかない。そこからインスパイアされたかの徒然の散文や映像をなぞった感想文を書くのは、どうしても私の役割とは思えないのである。

さて、聖母子像が初めから踏み絵となるべく描かれたわけでなくとも、それが(仮に稚拙な複製であったとしても)ある種の人々の手に渡れば、それは踏み絵として、隠れたクリスチャンを炙り出すための道具となる。私はこの映画『カンダハール』が、無自覚な“解放主義”者に対して、今回の戦争という事態の正当化の道具として暴力肯定論者の手に引き渡してしまわないことを切に願う。そしてアフガニスタン“戦争”が始まってしまった後の「踏み絵」として差し出されたかに(勝手に)感じた私自身が、これまで以上に「解放か自決か」の憂鬱なアンビヴァレンスを生きなければならないのである。


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