衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

表現とは何か 〜 さらなる考察への端緒

August 2-6, 2001
 
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今まで記述の対象となったものの性質や、主張したかった論旨の内容のため、敢えて問題にしてこなかったが、取り上げようと思えばいくらでも課題が見いだせる、あることばが長いこと筆者の心中にあった。それは、「表現」という言葉である。私がこれまで一見無反省に繰り返してきたように感じている読者も中にはいるかもしれないが、私がそれを放置してきたのは、問題を単純化し、論旨を限定するための便宜であったのだ。つまり、ひとつの論点を深めるためには、複数の言葉の不確実を認めてしまうと、意味変化のパラメータが多すぎてポイントレスな論述になってしまうので、それを避けるためのいわば一時的な方便なのである。後はとにかく、不確実と思われる用語を片っ端から取り上げてゆくという、終わりなき追究があるのみなのだ(いやになったら、やめるけどね)。


芸術作品や創作行為がある種の「表現」であるという言い方が疑いのないものとして多くの人によって受け容れられているように思うし、筆者自身、正直言えば、この言葉が存在することで別の多くのことが簡単に論じられることに意義を感じていたものである。しかし、ここで立ち止まって、敢えて<表現>という言葉の持つ多義性とその言葉の意味する射程の曖昧さのために生じているはずのコミュニケーション上の不具合をここで炙り出してみるというのも乙なモンかもしれない。

「芸術は自己を表現する行為である」という一見して有効そうな言い方があるが、果たして本当にそうなのか? 一番面倒くさいところからまず話を始めてみるのもテだ。私も音楽に関わる者であるが、自分が音楽をするに当たって「よーし、自己を表現してやろう」と思ってやっているかというと、そうではないと思う。実は多くの人が同様に思っているのではないだろうか。たとえば音楽家はその多くが、いい音や良いフレーズを出そうとはしているかもしれないが、自己を表現してやろう、などとは考えもしていないのではないか(それで良いのかどうかを判断するのには長い時間が掛かる)。それではどうして前記のような言い方が一般的に出てくるのだろう。

だがここでは、一歩退いて「芸術は“何か”を表現する行為である」と置き換えてみることにする。これに関してはより多くの人が肯定するかもしれない。しかし“何か”の中身が大事だ。それが何であるか分からない、実体不明の何かを「表現」しようとして本当に芸術をやっているのだろうか? それでさえ、疑うことが出来る。「芸術とは表現でない」というより<刺激的な主張>にさえつながっていけるのではないか。

表現という言葉の意味のひとつとして、ためらいなく「使える」ものとして、「現実世界の或る何かを別のものに置き換えてあらわす」と言うことがあると思う。たとえば、ベートーヴェンの標題音楽の中にも出てくるが、管楽器を使って鳥の鳴き声を「表現」するとか、ティンパニで雷鳴を「表現」するという場合のそれである。ベルリオーズは、その代表作「幻想交響曲」の中で、非常に多用な楽器を使った表現を行った。弦楽器のピチカートを用いて断頭台から転がり落ちる首のバウンドさえ表現した。ここで筆者が使っているような意味での<表現>というのは、恐らくもっとも問題の少ない定義にのっとったものであろう。つまり或る代替物による現実世界の或るものへの置き換えが<表現>であるという部分である。

ところが、現実的にはわれわれは<表現>という言葉をもっと広範な対象に使用している。現実世界にあるものと言ったって、雷鳴や鳥の鳴き声ばかりでなく、心象を音や色に置き換えると言うこともわれわれは多くの局面でおこなっているからである。悲しみを、号泣やすすり泣きで「表現」するなどと言うことはあるだろうし、悔しさを怒りや笑いで<表現>することもあるだろう。あるいは悲しい気持ちをブルーで<表現>するのは、(工夫がないと仰るかもしれないが)絵画の世界では常套化されているだろうし、音楽の世界では悲しみや憂鬱を短調の音階で<表現>したりする。こうした意味で言えば、音楽も絵画も、何か人間の内面の感情を置き換えることの出来るある種の<表現>手段である、という言い方が出てくるのも肯けるのである。

しかし、われわれがここで敢えて取り上げるべきは、こうした疑いもない<表現>の意味(便宜的にこれを<表現>の第一義と命名しても良い)についてではあるまい。やはり、一番めんどくさい「芸術は自己を表現する行為である」あるいは、「芸術は“何か”を表現する行為である」の部分にこそ課題が見出されるのである。

私の憶測から言うと、ここでの課題は、創作に向かう創作者の目的意識(A)と創作された作品を捉える鑑賞者の把握するもの(B)の間にある、“必然的かつ健全な不一致”のために起こることなのではないかと考える。いかに創作家が自己を“表現”することに無関心で、自己以外の何かを表出し伝えるために努力をしたとしても(あるいは、何かを表現すること自体に対して根本的に無関心であっても)、その者が選ぶ手法や創られたものの“行間”に、創作家自身のパーソナリティや深層の心象状態などが滲み出るという避けがたい出来事があるということではないのか。もっと言うと、創作家が「何かを表現する」ことはおろか「何かを伝える」ことにすら無関心であっても、「何かが伝わってしまう」ということなのではないか。芸術とひと括りにされているさまざまな行為が“表現”行為である、と言われるのには、このあたりの受け手の読みの能力が前提としてあるのであり、こうした創作者の行為(A’)と創られたものの間に何か象徴的な関係を読みとってしまう受け手の性向(B’)というのが「表現」を考察する上で、無視し去ることができない要素なのではあるまいか。

たとえば、「音楽は言葉で言い表されないことを伝える“言葉”(sign)である」とか、映画や絵画などの視覚的作品も「言葉や理屈で表せないことを端的に伝えるための象徴(sign)である」などと言われるのは、それら(作品)がやはり<表現>に属するものであると受け手がどうしても捉えてしまうからなのではないか。しかもそれは無理もない話で、受け手が捉えてしまう「内容」というものが、単に自発的・無条件的な妄想と言うよりは、あくまでも外的な「作品」の存在によって触発されて、想像や空想が受け手の内面の「現実」として条件的に発生するものであるからだ。つまり、受け手の立場からすれば、すべての創作物は、やはり表現されたものと捉えられるのである。仮にそれが創作家側が意識しないとしても、である。

ここで、あらゆる創作芸術に向かうものたちが対峙しなければならない現実が立ち現れる。個人的意図としての創作行為は、対外的には「表現」されたものとして捉えられがちだという第一点である。その一方、作者は積極的に具体的な何かを「表現」しているつもりがなかったり、少なくとも「自己表現」する事に無頓着であるという内的な現実があるという第二点である。これは、ひとつの課題を捉える端緒に過ぎない。本当の考察はこの地点から始まるのである。

(続く)


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