衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

「罪もない一般市民」とは誰か?

September 20, 2002
 
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一般市民という隠れ蓑に身を潜めて今後起こる一切の出来事に関して、自分は無関係であったし回避することが出来なかった、という方便を確保しておくことに筆者は潔さを感じない。なぜならば、確かに無力ではあるかも知れないが、われわれは情報から隔離されておらず、その気になれば相当多くの物事の真相に迫ることが出来る立場にいるからである。

そして、自分の生の価値さえ度外視できるほどに死への恐怖克服が成されていれば、われわれは今の一見強固な体制に対してさえ無力ではなくなる。

だが、むしろわれわれはすでに選択をしているのである。おそらく自分は爆撃によって死なないだろう...万が一にも爆撃によって死ぬかも知れないが、敢えて正義のためにすすんで自らの“祝福された”生命を危うくすることもあるまい...君子危うきに近付かず...

何者かによる「不当な」報復をあらかじめ防ぐための努力に、自分の現今の貴重な時間や体力を費やすよりは、とりあえず当面の難を逃れる生き方をなんとしても選ぶのである。われわれは日々の小禍を甘んじて受け容れて将来の大禍を防ぐより、日々の楽を選び、小禍のひとつひとつを巧妙にやり過ごし、最期的な大禍を甘んじて受けることを、選んだのである。これぞ究極の「大乗」なのである。Amen!

アフガニスタンの貧しい住人たちが爆撃で殺されたのを指して「善良な市民」「罪のない一般市民が...」と呼ぶのと、われわれがわれわれ自身を呼ぶのとが同じであるはずがない。それは「知」がわれわれの「理」を変質させるからである。われわれはもはや「善良な市民」でもなければ「罪のない一般市民」でもない。加えて、殺されるのが「一般市民」であるとばかりは限らない。われわれに何かが降りかかったとき、それは、通り魔に殺される小学生が「罪もない一般市民」であるのと同次元の不条理であるはずがない。アフガニスタンでの出来事はさし置くとして、殺されて当然のヤツが、「罪もない一般市民」の中に、絶対に含まれていない、とは限らない。しかし、この際それをあまり言うまい。

われわれ一人一人が大量消費社会のシステムに依存し、石油を燃やし、地球温暖化を促進し、やがて地球からのなんらかの「報復的・大量破壊的」レスポンスが来る。自分の住むところが水浸しになる。住んでいるところが山火事で焼失する。大津波が来て町が根こそぎになる。こうしてわれわれの生命が脅かされたり失われたりするとき、われわれは地球に対して「罪もない一般市民に対して何をする!」と問えるのか。生活態度を改めないわれわれは、すべからく「罪深い愚民」なのである。

近未来的には、報復してくる相手はもちろん大自然とは限らない。われわれが仮に某国の爆撃によって殺されるとき、はたしてわれわれはわれわれ自身を「罪もない一般市民」と呼ぶことが出来るのか、それを問う必要がないのか、ということなのである。


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