衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

意識改革の2日間(女たちだけが前衛だ!)

January 29, 2003
(uploaded February 3, 2003)
 
English version

私の憶測では、意識改革と呼ぶに相応しい体験というのは、そうめったに起こることではない。でも、あの(怒濤のような)1月25, 26の二日間は、私にとってまさに意識改革と呼ぶに相応しいものだったと感じている。

第2回ウイメンズパフォーマンスアート大阪(1/24-26, 2003)の都住創センターにおける作家たちのパフォーマンスを見終わってすぐは、もっとインスタントなそれぞれの作品に対する個別な感慨というものに囚われていたが、帰路、新幹線の中で、それらを思い出しているうちに、その感慨は、彼女たちの表現作品が、やがて今までの自分という人間、男という性を生きているということの意味、女性との関わり、といったあらゆる社会的な問題と不可分に結びついており、発信された作品は、他ならぬ私自身の意識変革を迫るために計画されたのではないか、とさえ思われるほどの衝撃へとゆっくりと変わっていったのだった。

いまだ感動の余韻の中にいるので、いかんせん感情的な記述になってしまうが、逆にホットなうちにキーボードを叩いてしまうことにした。全くまとまりがなくて恐縮だが、アップするのは今しかないだろう。(それに、会場でアンケート用紙に書いた自分のコメントが余りにお粗末だったので、もう少しきちんと書いてみる気になったのだ。)


さて、「分かってたまるか」という意気込みで演じている女性作家がいるとすれば、申し訳ないが、「これは分かりうるものだし、分かろうとすれば、それだけの報いの返ってくるものだ」ということが確信を持って言えるもの、それが彼女たちのパフォーマンスであった。

そして、こうした具体的な行為を通じてパフォーマンスを行っている作家の方々は、こうした人の心に届く表現を追求していることを誇って良いと思う。もちろん、そんなことは私ごときに言われるまでもなく、十分に自覚されているものと思う。

1年半以上前にウイメンズアートネットワークというムーヴメントがあり、何かやっているということを知ったときも、全く恥ずかしいことだが、特に特別な感慨を抱くこともなく、敢えて言うなら、そもそも女性の創作家たちだけが排他的に集まって何か芸術的な催し物をするということに、どのような特別な意味があるのだろうか、というくらいの漠然とした印象しか持たなかった(それが私の意識レベルなのであった)。しかし、これは民族的なマイノリティが集まってシンポジウムを開いたり、何か表現的なフェスティバルを行うことにどのような意味を持つのか、と問うような低い社会問題への意識と何ら変わるところはない、ということを今さらながら悟ったのである。

彼女たちの作品は、生理的に一見「不快」な表現も含まれるかも知れないが、表現されていたもの自体は、そのほとんどが具体的なものであり、自己の身体や社会に対する問題意識に深く根ざした内的確信の表明であったように思うのである。


(ここで、私に近しい第三者が読んでも「何のことだかさっぱりワカラン」という事になるかも知れないので、もっと自分の関心に引き寄せてみようと思った。あるいは、このことを語るには自分が余りに準備不足であることに、はたと気付いたと言うべきかもしれない。)

ここで、音楽の世界で出来ること、というのを考えてみた。「パフォーマンス」というと、音の表現をライフワーク(Yuko Nexus6さんの仰る「jobじゃなくてworkの部分」というヤツのことだが)としている自分としては、どうしても自分の関心事に引きつけて考えてしまわざるを得ないというのはあるのだ。しかし、私がせいぜい演じられる役割としては、「音楽の本来の(忘れられつつある)機能を復帰させる」ということくらいしかないというのが、このところ私が行き着いた結論である。これ自体は一見保守的な音楽観である。これは、私がここ数年掛けてゆっくり確信するに至った結論なのであるが、あらゆるパフォーマンスと呼ばれる表現形式の持っている、それぞれの機能や性質というものを、改めて検討する必要があり、しかも、そうしたそれぞれの本来的な役割に戻ることが、後ろ向きな態度なのではなく、いやむしろそれしか残されていない、それをやらないことこそが逃げなのである、という確信を深めるに至ったのだ。何故なのだと聞かれると説明に窮するが、彼女たちの身を挺したパフォーマンスは、そうした方向性に歩みつつある自分を勇気づけた。

(唐突ですが...)
音楽で前衛はあり得ない。 前衛的なものはあり、前衛たろうとしたものは過去にもあったし、今もある。そして、こうした音楽活動上の勘違いは、これからも続き、多くの人の時間や労力の無駄遣いが行われるだろう。つまり、「前衛」音楽家たちのための「前衛」音楽という浪費が男性社会の中で続けられていくだろうということは、残念ながら、まず間違いない。

しかし、本来の意味で前衛という言葉や、前衛というありかたが、最も相応しい分野というものが、依然として世の中にはある。それを私は知った。それは、「社会生活において実際的な苦悩を生きる人々による表現」である。そして、本当の意味でこの社会において前衛たれる人がいるとしたら、それは女性たちしかいないのではあるまいか。そうしたある種のひらめきを私に与え、心底驚かせてくれたのが、まさにこの2日間における第2回ウイメンズパフォーマンスアート大阪であったのだ。(ああ、やっともとに戻ってきたぞ!)

女性としての内的もしくは肉体的な苦悩や、社会に対する変革の要求。男性の無関心。こうした状況の中で、彼らは明確なメッセージをもった内容と表現方法を時間を掛けて獲得していったに違いない。

その点、男性の芸術家どもを夢中にして、この世の大問題であるように、大袈裟に、その膨大な時間と労力と金とをつぎ込んで人生を捧げている「表現のモンダイ」など、この際、狭い男同士の「慰み」のようなものにすぎないのかもしれない。そして、暇つぶしの方法をどうさらに複雑化するか、どこまで「退屈を真剣にやる」かを競い合うためのものにほかならないのではないか、とさえ思わせるほど、彼女たちのパフォーマンスには真に迫る説得力があった。断じて、われわれ男性がやってきたことは、男のための男による男の狭い願望の果てしない伸展を目指す、虚栄に満ちた自己存在の主張でしかないのである。(ゴメン!極論で。)

男たちのたいがいの「表現活動」は、女性たちが「ないもの」を獲得するための、いわば生存に直接拘わる重大事などではなく、どんなに高尚そうに見えても、しょせん男たちの世界で自己完結している独善的な趣味のようなものに過ぎないのではないか?(ゴメン!極論だよ。)

私は生まれて初めて男に生まれたことを、そして、当たり前のように大威張りで男として生きてきたことを恥ずかしいとさえ思った。われわれは常に彼女たちの厳しい視線に曝されているのであり、(求められているのと同時に)憎まれているのである。われわれは一目置かれているどころか、敵視さえ、されているのだよ。われわれこそが目覚めなければならない。私は旧い人間であり、社会問題とも安穏と、全く無縁できただけだったと思う。しかし、これからは、醒めた女性たちの目を意識しないで生きていくことはもはや出来ないのである。(うぉー!どうしたらいいんだよ?)

私は自分がこのような話題を採りあげ、あれこれを論じるに相応しい人間でさえなく、自分は女性について何も知らず、これまで知らないことを恥ともせず、単に自己の在り方にだけ注意を奪われたエゴイスティックな人間でしかなかった。私はほんとうに恥ずかしい。もちろん、一朝一夕に私という男が変わり、明日からはこれでOKということにはならない。私の彼女たちに関する無理解の根は深いからだ。

創作活動につねに関心を抱いてきた人間として、彼女たちの表現上の方法に関して、それぞれ好き嫌いを言い出せば、全くないわけではない。しかし、そのようなことは、もはや何ら問題にならないほど、彼女たちの表現した内容に、入り込まされ、胸を撃ちのめされたのだ。

彼らの表現こそ、真の前衛の名に相応しいものである。前衛などというと、何か深淵で、分かりにくく、極端であり、見た目に奇異で、表現方法の発想自体で勝負する「アレ」か?と思われそうだが、彼女たちのそれは、そういったものではない。そこには、「前衛たろう」とか「パイオニアたろう」とかいう不純な動機もなく、その内容は、男たちが容易に陥りがちな偏狭さや勘違いとも無縁なものだ。望むと望まざるとに拘わらず、彼女たちがこの社会で何かを主張することは、それ自体で前衛となってしまうのである。(この意味を男たちよ、考えなければいけない!)そして、繰り返すように、それは真の前衛なのである。そして、彼女たちの主張を前衛と感じさせてしまうほど、われわれ男たちは古臭く、度し難く愚か者なのである。われわれ男どもは、競って文明の塔を高く築き上げることで、誰も救ってこなかった。われわれ男どもは、母ひとり、娘ひとり救うことが出来ず、愛する者を追いつめてきただけなのだ。

そう。彼女たちは前衛を目指してそうなったのではなく、女性たちが、現代の社会において男性が当然のこととして日々行い権利として享受している、ごく当たり前のことを主張するだけで、そのために、結果として前衛となったのである。(このことの意味を男どもはどこまで意識しているだろうか?)もちろん、彼女たちは前衛を目的として行動を始めたわけではない。

われわれ男どもは、前衛でありたいと願っても、前衛ではあり得ず、前衛であるか否かは、まさに、社会と自己との関係の中でしかあり得ぬものだということが、説明するまでもなく真実なのだということを遅ればせに知ることになる。その入り口の部分を垣間見ることが出来たのは、彼女たちのおかげだ。彼女たちの表現が前衛に見えるのは当然なのである。それは、彼女たちの住んでいる世界が、あるいは男たちが作り上げた社会が、彼女たちを世界の最前衛に追いやっているからである。

芸術の中での方法論的な前衛性はもうすでに終わっている。それは、もう久しく分かってはいた。しかし、すべてがとは言わないが、どう転んでも男性の捻り出してきたそのほとんどは、表面的に前衛的な身振りやそぶりでしかない。しかし、女性たちの社会に向けた主張や表現には、本当の前衛が反映しているのである。われわれ男性にではなく、彼女たちの方こそ、主張する理由や動機があるのである。作品自体は、一見して舞踏や音楽や朗読、そして光や映像や身体の身振りを使った、われわれに親しみのある、なんらかの表現芸術に近いものだったかもしれない。しかし、われわれ男性が定義して有り難がってきた「芸術」とは、明らかにその出自が違うものだ。彼女たちのそれは、われわれが「芸術」として受容できるようなものであってはいけないのかもしれない。

さまざまな既知の表現の概念を取り入れたものであっても、彼女たちがそうした表現方法を取り入れて、身を以て表現している作品は、全く別のところ、すなわち、日々の現実的問題の中から出てきた警鐘の意味を持っているのを、私は彼女たちの考え抜かれた演技とその迫力の中に見出したのである。

彼女たちのメッセージは、自称芸術家の集う狭いパフォーマンス的な舞台上に閉じこめておくようなものではない。あるいは女性の問題に関心を持った女性たちだけに観賞されるべきものでもない。率直に、彼女たちの作品は、世の男たちにこそ届かなければならないのではないか。男たちの大いなる関心事である「芸術」が、趣味で終わるのか、社会的にインパクトを持つものになるのか。男たちが彼女たちのメッセージを自分の問題として受け容れ、生活に反映されることになって初めて、その真価が問われるに違いない。そして、それは必ずしもテレビや新聞で採りあげられるような規模の「社会問題」となるのではなく、われわれの日常的な生活の中で、家の中で、互いの性を思いやり、労るということが可能になって初めて実現されたと言えるのではないか。

今、私をイベントに暖かく迎え容れてくれた彼女たちの顔をひとりひとり思い出しながら、深い感慨を覚えている。そして、こうしたイベントを可能にした果敢な中西美穂さんとイベントを支えたすべてのスタッフに、私にとって全く未知の世界に誘い、目を開かせてくれる機会を与えてくれた永山亜紀子との出会いに、感謝の気持ちを表したいと思う。


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