衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

「大いなる勘違いの体系」に捧ぐ

October 30 - November 14, 2003
 
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それはある「同業」の知り合いからの連絡を通して本人からもたらされた。そしてそれはこのように表現されたのであった。「それは大いなる勘違いの体系なんだ」という言葉である。私が実際に生涯をかけて解明しようとしているその謎への最も明快な答とそれへの呼び名を探していると、その言葉は発せられた。

確かに彼が言うように、それは「大いなる勘違い」と健全なる誤解であることに違いはない。しかし、このふたつがなければ伝えられない真実がある。もっとも大きな事実と言い直しても良い。どのような方法であれ、それが時と空間を越えて伝達されなければならないとすれば、それは最大の数の人々を長期に渡って巻き込む壮大な嘘でなければならず、もっとも信じがたい嘘であるのと同時に、信じがたいその大きさに力を得て、嘘を信じない者達こそが愚か者であるという教えにまで昇華されるものでなければならない。そして、信じがたさというのは、その人の従順さを測るための正に踏み絵としても働くのである。

さて、その勘違いと誤解はあらかじめ仕組まれていたことであると言うことができる。何故そこまで込み入った方法でわれわれに何らか事項を伝えようとするのかと言えば、それはその意思が余りに強固なものであるということに尽きる。始めてしまった行為を中絶するのがわれわれにとって耐え難いものであるのとそれは同一のことである。はたして、彼はそれを始めた。始めたからにはそれを終えなければならない。しかもそれはとても好いものとして終わる必要があるのである。それについては成人したわれわれのほとんどが知るところのことである。

その偉大なる体系は誤解を包含するものとして作られた。そして必ず勘違いの手続きを経るが、伝えたいことの本質は必ず何者かに伝わる。ほとんど大多数の壮大なる誤解と偉大なる勘違いの信仰の力を借りて、たった一つの真実が一掴みの者に、時を越えて、伝えられる。誤解の力を借りて、その言葉の意図するところはいずれ成就するのである。

その壮大なる誤解の本質は、われわれを救いつつ地獄の底に突き落とす。地獄をかいま見せた上で救済する。うんざりするほどに生も死も同じものであるとすれば、正解も誤解もどちらも真である。懼れが畏れられているものを招来し、懼れを失えば、成就の時は永久に来ない。否定的な見通しが強いほど、見通しの回避よりも、むしろその懼れの実現へとより強いバネの弓を引くことになる。そしてその懼れへの抵抗が強いほど、放たれた矢は結局抵抗する者達により大きな打撃を与えることが出来る。

断じて、あなた方は信仰したために救われるのではなく、信仰するために死ぬ目的をようやく得、死そのものの原因も同時に得る。逆に、信仰がなければ、生にも死にも目的が発生しない。あなたはおそらく生きているが、死は途方もなく堂々と立ちふさがり、そのために生きることが出来ない。よく生きられないあなたは死ぬこともできない。そのために奇跡の体系に身を寄せ、少しでも長くこの大気を吸うことだけを求める。そこでただ生き延びるためでない目的を得るべく、信仰が登場する。信仰は目的意識の別名である。 従って信仰も救済も生存すること自体に結び付いていない。生存そのものは、自身の救済とつながることがない。なぜなら、死は生けるものにとって不可避であるから。しかし、納得とは結び付き得る。納得こそが最大の現世的救済だ。だから納得のために多くの旅人は、救済のためではなく、現世の家を出ることを決意する。

なぜこのような話し方をするのかと私は問われる。するとこのように私は応える。知に呼びかけるあなた方に解る話し方をすれば、あなた方の知性が目を覚まし、その目覚めは言葉の背後の存在を捉えることをせず、また捉えることが出来たとしても、その意味するところに耐えることが出来ない。そして、私が論証し納得させることが出来たとしても、あなたの心はそれを受け容れることを潔くしない。つまり分かるためには自発的でなければならず、その人にとって必要なときに必要な仕方でそれに到達することによってしか、それとともに生きることは出来ないからなのである。

そこでこの言葉はいつ芽を出すともしれずに広大な大地に、それとは気付かれない種という形で蒔かれるのである。

そして、それは詩の言葉で語られたのである。

ああ、それにしてもなんという違いだろう
あなた方の血縁の父と我が父との間にあるものは

あなた方の信じる奇跡とは
起こるべくして起こるという意味で
もはや奇跡の名に値しない

仮に癒されるはずのない病からその病人らが立ち上がり
目の見えない者たちが光を取り戻し
もはや死んでしまったはずの者らが
墓場から這いだし、甦ったとしても
それは今日私たちが目撃していることである

あなた方の血縁の父が死に、
三日目に甦ったとして
それは私たちがすでに見てきたことであり、
これからも子孫たちが見ることに過ぎない

そこであなた方に改めて言う
あなた方の血縁の父が「人の子」と記されているのには
明らかなわけがある
彼の他に父なる神がいて
その神と区別される必要があるからである
(しかし、あなた方こそが、そして私たちこそが
人の子であるというその事実を如何に容易に忘れ得たであろうか)

彼は神の創造物のひとつではあっても
神自身ではないからである
そして、あなた方が狡猾にも言い換えた「神の子」という言葉は
あなた方の滅多にめくることのない
その善き本の中を懸命になって探し求めても出てこないのである

むろん、神の子であるという言い方が千に一つも正しいものであったとして
それを認めることは、あなた方自身について語ることに他ならず
そうなれば、あなた方の血縁の父が、
あなた方と変わるところがないことになり
礼拝の対象としては相応しくない者になることを
恐らく気付いているのである

しかし、あなた方の血縁の父を礼拝の対象としない私たちにとって
彼も私たちもその両方が神の子であるということを
彼の地にてはなんのためらいもなく言うことができる
それは、あなた方のするように信仰しないことを
私たちが選んでいるからである

そして彼が苦悩し、文字通り一度死んだことにも徴がある
その徴とは私たちが不死でないことと相似をなしている
そして彼が死してやがて甦ることも
あなた方の人生と相似しているのである

彼が神でないことは
天命を全うした私たちの血縁の父である方と実は同様である
不死である神のようではなく
あなた方の血縁の父も私たちの様であるのは
ひとつの理由しかない
それはあなた方が神を、ではなく、
彼を、信仰することによってしか達成できないことを成就させるためである
神への直接の帰依ではなく、
あなた方の血縁の父を信仰の対象とするのは
ひとつの理由しかない

それは成就を永遠に引き延ばすことに、その方は耐えられないからである
そこで、神はあなた方の血縁の父を成就させるものとして
あなたの血縁の父を立てたのである

しかるに、もしあなた方が神と同様であるにも関わらず
母とも同様であるならば
「奇跡」を達成することは出来なかったからだ
それら「奇跡」は、繰り返すように、血縁の父を通して
神の意志として実現されなければならなかった
そしてその奇跡は善きものであると同時に
だが結果としては多大な痛みを伴うものでなければならなかった
ところがあなた方はそれを忘れて
奇跡だけを与ろうとするのである
あなた方はあなた方の血縁の父がどのような死を迎えたのか
それを今一度想起しなければならない

不死なのではなく、死にゆく者であるが故に
その奇跡には価値があった、かつては
地上的な価値があった
そして、この奇跡をもたらすものは
誰もが疑ったとしても処女懐胎するのである
生霊の受肉という信じがたいが正しい「聖別」に拠って

しかし、私たちの内、たった一人でも
この奇跡的出来事に拠らずに生まれてきた者はいるか?
私たち生けるもののすべての根が
そのようにしてこの世に生を受けたのではなかったか?

母はおり、神はいた

そしてかつて
蔑まれ、
ののしられ、
鞭打たれ、
公衆で衣を剥がされ、
高らかなる二本の木につけられて死んだ
あなた方の血縁の父の道を
われわれも同様に歩んでいるのである

なぜ福音は福音と言われるのか
福音は善き知らせのことである
それはそれがわれわれの未来を約束する
預言であるにもかかわらず

それはあたかも過去を語るように
「善き知らせ」をあなた方に伝えた

血縁の父が弟子達の前に再び現れたとき、
彼らはそれが自らの父であることが分からなかった
復活したにもかかわらず、それが彼であることを
弟子達は容易に見抜けなかった

それは、既に血縁の父が蘇っていても
われわれがそれに気付いていないことと同じ事である
彼は死後まもなく蘇ったが、われわれはそれに気付かない
彼は以前そうであったようにこれからも再び死の丘を登るが
彼は、それを既に幾度も約束しているように
何度でもあなた方の前に現れる

そしてそれを福音とあなた方は名付けたのだ
それが幾度死しても
必ずやふたたび辛い茨の道を歩まなければならないとしても
そのように呼ぶことにした

「彼が木の上で受難を受けていたとき、あなたは何処で何をしていたのか」
そう、信心深い人の口から口へ伝えられているその言葉は
いま立ち止まって耳を傾けるべきことである

そしてあのような歩みに導くための導き手として
その手本はすでに示され
その生き方はあなた方によって信じられた
だからこそ、そのような死に様のその父は
生まれてこなければならなかった
偉大なる救済の失敗を演じるために

そして何度もその失敗の記憶を新たに想起されることが必要なのだ
あなた方には

天の父への信仰と母なる大地への信仰の恢復だけが
このあなたのいまだに信じる「奇跡」と苦しみの道を断ち切る方法なのである

あなた方の礼拝の賛歌を聴きながら
あなた方の一部が礼拝する母の体外に出てきてより

10/30/2003

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