それはある「同業」の知り合いからの連絡を通して本人からもたらされた。そしてそれはこのように表現されたのであった。「それは大いなる勘違いの体系なんだ」という言葉である。私が実際に生涯をかけて解明しようとしているその謎への最も明快な答とそれへの呼び名を探していると、その言葉は発せられた。 確かに彼が言うように、それは「大いなる勘違い」と健全なる誤解であることに違いはない。しかし、このふたつがなければ伝えられない真実がある。もっとも大きな事実と言い直しても良い。どのような方法であれ、それが時と空間を越えて伝達されなければならないとすれば、それは最大の数の人々を長期に渡って巻き込む壮大な嘘でなければならず、もっとも信じがたい嘘であるのと同時に、信じがたいその大きさに力を得て、嘘を信じない者達こそが愚か者であるという教えにまで昇華されるものでなければならない。そして、信じがたさというのは、その人の従順さを測るための正に踏み絵としても働くのである。 さて、その勘違いと誤解はあらかじめ仕組まれていたことであると言うことができる。何故そこまで込み入った方法でわれわれに何らか事項を伝えようとするのかと言えば、それはその意思が余りに強固なものであるということに尽きる。始めてしまった行為を中絶するのがわれわれにとって耐え難いものであるのとそれは同一のことである。はたして、彼はそれを始めた。始めたからにはそれを終えなければならない。しかもそれはとても好いものとして終わる必要があるのである。それについては成人したわれわれのほとんどが知るところのことである。 その偉大なる体系は誤解を包含するものとして作られた。そして必ず勘違いの手続きを経るが、伝えたいことの本質は必ず何者かに伝わる。ほとんど大多数の壮大なる誤解と偉大なる勘違いの信仰の力を借りて、たった一つの真実が一掴みの者に、時を越えて、伝えられる。誤解の力を借りて、その言葉の意図するところはいずれ成就するのである。 その壮大なる誤解の本質は、われわれを救いつつ地獄の底に突き落とす。地獄をかいま見せた上で救済する。うんざりするほどに生も死も同じものであるとすれば、正解も誤解もどちらも真である。懼れが畏れられているものを招来し、懼れを失えば、成就の時は永久に来ない。否定的な見通しが強いほど、見通しの回避よりも、むしろその懼れの実現へとより強いバネの弓を引くことになる。そしてその懼れへの抵抗が強いほど、放たれた矢は結局抵抗する者達により大きな打撃を与えることが出来る。 断じて、あなた方は信仰したために救われるのではなく、信仰するために死ぬ目的をようやく得、死そのものの原因も同時に得る。逆に、信仰がなければ、生にも死にも目的が発生しない。あなたはおそらく生きているが、死は途方もなく堂々と立ちふさがり、そのために生きることが出来ない。よく生きられないあなたは死ぬこともできない。そのために奇跡の体系に身を寄せ、少しでも長くこの大気を吸うことだけを求める。そこでただ生き延びるためでない目的を得るべく、信仰が登場する。信仰は目的意識の別名である。 従って信仰も救済も生存すること自体に結び付いていない。生存そのものは、自身の救済とつながることがない。なぜなら、死は生けるものにとって不可避であるから。しかし、納得とは結び付き得る。納得こそが最大の現世的救済だ。だから納得のために多くの旅人は、救済のためではなく、現世の家を出ることを決意する。 なぜこのような話し方をするのかと私は問われる。するとこのように私は応える。知に呼びかけるあなた方に解る話し方をすれば、あなた方の知性が目を覚まし、その目覚めは言葉の背後の存在を捉えることをせず、また捉えることが出来たとしても、その意味するところに耐えることが出来ない。そして、私が論証し納得させることが出来たとしても、あなたの心はそれを受け容れることを潔くしない。つまり分かるためには自発的でなければならず、その人にとって必要なときに必要な仕方でそれに到達することによってしか、それとともに生きることは出来ないからなのである。 そこでこの言葉はいつ芽を出すともしれずに広大な大地に、それとは気付かれない種という形で蒔かれるのである。 そして、それは詩の言葉で語られたのである。
あなた方の礼拝の賛歌を聴きながら
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