衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

「理屈でない」のはわれわれの頭

August 8-17, 2001
 
English version

物事が理屈でないと言うなら、私は敢えてこう言いましょう。いや、すべては理屈(または道理)である、と。ただ、理屈でないと言う人には、「あなたが理屈を分かっていないだけ」あるいは「理屈を分かりたくないだけ」と言わせて貰います。あるいは、それでもやはり物事がリクツでないというなら、「あなたが理屈に耳を貸さないだけ」または、「あなた自身が無理を通して道理を引っ込ませている張本人」と言わせて頂きます。

「理屈でない」と言う人には、おおまかに二つのタイプがあると思います。ひとつには、“頭”で考えるというよりは、直感や第六感に頼って“本能”的、または思いつきで行動しているひとで、かと言ってつまらない人生を送っているわけでもない、イヤむしろ、結構楽しい人生を送って満足しているというタイプです。そんなひとは、ここでの記述の対象になりません。一方、結構“頭”で考えたり、思い悩んだり、いろいろなことの答えを求めたり、他人のアドバイスを求めたり、ひとに相談をしたりしてるくせに、他人から自分のことの説明を求められたり、行動の理由を尋ねられるとうまく説明できず、結局「いえ、でもやっぱり理屈じゃないんです」となるひとです。

私に言わせると、こんな人にはむしろ“徹底的な理屈”が必要だと思います。「混乱したあなたにこそ、理屈を!」ただし、人から与えられた理屈であってはいけない。しかもそれは自分自身を知るというところから始めなければならない。人が(あなたの中の道理としての)理屈を教えられるはずもない。ただ、第三者がその人に質問を重ねていくことで、その人の問題点を突きとめることはできるかもしれない。誰かが代わりにやるのではなくて、自分で自分に対して質問をして、ひとつひとつに応えていけるなら自分でやればいい。できないのなら、信頼できる人と対話をすればいい。でもこんな時に、本や雑誌はいけない。なぜなら、あなたのその複雑な人生に対応できるパターンなど、誰も知らないし、用意できるはずもないからです。でも対話の相手も、そのときは、答えのそれぞれに関して何がどうだから良いとか悪いとか、そうした場面場面で判断を挟むのではなくて、ある問いに対する答えと別のある問いに対する答えとで、何がどう矛盾しているかを突き止めるための手助けしかしてはならない。答えによって直接価値判断を下そうと言うのではなくて、ある答えとある答えの間、すなわち複数のそのひとの中の道理に矛盾・対立があるのだとすれば、何がそうさせるのかの深層心理を本人に見つめて貰うための対話であり問いでなければならない。

数学と同じで、ある人物の行動や考え方に相矛盾する要素があるとすれば、どこかに問題があるということです。その問題が本人を苦しめているわけでしょう。どこが矛盾かが分かったところでそれが即解決に結び付くとは限らないこともあるでしょう。でも少なくとも苦しみの源がどこにあるのか、おおよそのところは分かるかもしれません。

また、「モノゴト理屈じゃない」というその方針自体が、実は言語化された立派なリクツです。そして、その「理屈」はあなた自身が言い出したことではない。みんながご都合的に言っているのをあなたも繰り返しているだけで、本当は、物事には道理ってものがあるのを心のどこかで知っていたりするのです。その道理をわれわれの言葉で説明することを便宜的にリクツと呼んでいるだけなわけです。だから、少なくとも理屈を「口に出来る」人は、「物事に道理がある」ことを認識している点では「リクツでない」を口にするよりは、はるかに救いに近いポジションにいるはずです。でも「リクツでない」を容易に口にする人はそれになかなか気が付かない。救済を自分から引き離しているんです。

もっと度し難いことに、「物事リクツじゃない」というその“考え”でもってどこかで得をしたりあなたをもっと大きな困難に陥れる人がいるって事です。そして得をするのは、それを言うあなたじゃない。

たとえばリクツでないことで成り立っているものをどんどん上げ挙げてみるとちょっと十分に辟易して貰えるかもしれない。

「祝日には国旗を掲揚すべき」というポリシーを持っている人のその根拠などは、「国民であれば当然」という説明になってしまい、どうして掲揚すべきなのか、それを理屈でちゃんと説明できない。彼ら“国旗掲揚推進”派にとっては「物事は理屈じゃない」のである。何かを推進するに当たって、それを称揚する側にこそ「なぜそうすべきか」の根拠を示す義務があるのであって、何かを拒否する人は「なぜそうしないか」を説明する義務を負わない。

「日本人であれば日本人のために闘わなければならない」というポリシーの根拠などは、おそらく「自分の家族をまもるのは当然のこと。くわえて日本人はひとつの民族であり、皆家族なのであるから、家族を守るが当然であるように、何かあれば、日本人を守るために闘わなければならないのは当然だ...」辺りがその“理屈”であろう。しかし「自分の家族を守るのは当然」ということ自体が根拠がない。「自分で作った家族」を守るのは義務である。したがって自分が子供を作って家族を成立させたのであれば、親であるあなたには子供を守る義務がある。しかし、子供には家族を守る義務はない。もちろん子供が親を愛するように仕向けるのはあなた自身で、愛するように出来るかどうかはあなたの器量次第ですが。それでも「愛しなさい」と押しつけることはできない。子供が好きであなたを守りたければやらせておけばいいが、それでさえ子供の義務ではない。子供は生まれてくる家族を選べない以上、家族であるからと言ってそれを無条件を守るために闘う義務を負わない。だから、あたかも「家族を守る」ように、自分が生まれてきてしまった「国家を守る」のを当然とするのも、どんなに正しそうに響いても、論理的には道理に適っていないのである。

(私が国家を作るなら、そのために国民を守るのは「私の義務」となるだろう。だが、私の国の中で誰かが生まれたからと言って、その人が私の国家を気に入らないのなら、そこにいる必要もなければ、守る義務も課せない。ただし、他の人の迷惑になることをするのであれば、出ていって貰うだろう。そこで、私の国家の中で義務を無理に課すことを強いたら、それは「私の暴力」と呼ばれるのです。)

また、もっと言えば日本人はひとつの民族(単一民族)ではない。だから「ひとつの民族であり」という前提もまずもって間違っている。さらに、日本人がみな家族と考えられるのであれば、なぜ「人間はひとつの家族、人類みな兄弟姉妹」であると言えないのだろう。つまり、「日本人なんだから、理屈じゃない」ということなのだろう。こういう「理屈でない」ことで、危険な主張をする人(あるいはそうした主張に疑問を持たない人)に対して、あなたは「理屈」で対抗する必要があるんです。

「日本人であれば、皇室を立てることは当然で、皇室の代継ぎが生まれるのは理屈抜きでめでたいこと」。これはひとつの理論 (theory) にはなるかもしれないが、論理 (logic) がない。皇室があることでそれがない状態より歴史的に人類が絶対良い状態になりしかも今後も皇室がない状態よりあった方が絶対良い状態として人類が存続するとこれも絶対の根拠を以て証明できるのであれば私は皇室の存続を「めでたいこと」として喜ぶかもしれない。

「とにかく体を使って踊ってみることです。その楽しみが分かれば十分です。とにかく踊りの楽しみは理屈じゃないんです」というような主張は、たぶん信頼できる。「どうして分数のわり算は、分母と分子をひっくり返して掛けるのか。それは理屈じゃないんだ、とにかくそう覚えなさい」。これは悪い先生のやること(まず「分数を掛ける」ことの意味に戻りなさい)。先生自体が、どうしてそうすればいいのか、ちゃんとは分かっていない。etc. etc....

私はこうして人の反感を買うことを言っていますが、実は「物事リクツじゃないんだ」というひとのその理屈を一度ちゃんと理解してみたいと思います。だからこそ、その主張をする人とゆっくり対話してみたいのです。限界ある“私の理解”を超えた、知られざる物事の道理というものを頭から否定する気もありませんし、むしろそれを知ることで、「彼ら」でなくて、他でもない「われわれ」の生活のより豊かな糧になるからです。相手に耳を傾けて少しでも理解できた方が、絶対に勝ちではないですか。


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