衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

Are you responsible?
April 3, 2001
 
English version

“I may not be particularly reliable, but I'm not at least irresponsible. ”

「私は、とりわけ頼りになるほうではないかもしれないが、少なくとも無責任ではない。」(立派な英語ではないかも知れないが、観念としては立派に成立する言い方だと思うのである)

「あいつ、むせきんだよな!」と誰かが言っているのを聞いてそれをどう考えて良いか分からない、などという状況はないだろうか? 「たしかに、むせきにんです。だって、あいつにはそもそもそのせきにんがないんですから」って口答えしたくなるわけだ。

こうなると、誰かさんの言う「せきにん」って一体何を指してるんだい?と問わないではいられない。私の想像するに、この言葉は広く使われている一方で、明確な定義もその意味も深く省みられずに曖昧なまま使用されているもののひとつなんじゃないかと勘ぐっているのである。おそらく、この言葉を乱用する小中学校の先生方や政治屋さん達はいても、それを上手に説明できる人というのは、そうはいないのではあるまいか? 私の知る限りでは英語で言うところの「responsibility」を筆頭に「accountability」や「liability」などの意味を包含する曖昧な言葉のような気がする。

結論から言うと、日本の社会では、「reliability」(頼り甲斐・引受能力)と英語で言うところの「accountability」に近い「responsibility」(責任一般)とがごっちゃになって、それを明確に区別することなく人を評価するにあたって適当に使っているな、と思うのである。上の英語のフレーズからいうと、私の感覚では「こいつは頼りにならん奴だな」という印象を受けるどころか、「正直で、実は案外頼りになる奴」と思うかも知れない。いや、敢えてこいつに頼ってやろうとは思わないかも知れないが、少なくとも平気で嘘を付く奴ではないとは思うだろう。もちろん、コンテクストによっては正直の度が過ぎて仕事を任せられないと感じるかも知れないが。だがおそらく、日本の社会ではこういう事を口にしてしまう奴は「信用ならん輩」と一蹴されるのが関の山なのである。

なぜなら、このクニには固有の「せきにんかん」という言葉で言い表される曖昧な観念があると信じられていて、それは人格なり性質なり「無条件に人に備わっていることが期待される」種類のものだと思われているからである。だが、私に言わせると、それは単に「頼り甲斐」もとい「甲斐性」の有無の問題だろうと思ってしまうのだ。要するに、「二つ返事」で物事を引き受けられる奴は「頼り」になり、そう言う者が「責任感」のある人とほぼ同等に考えられている。本来、この二つはまったく別の性質のものであるにもかかわらずである。実際問題、二つ返事で物事を引き受ける彼/彼女が、本当に責任まで引き受けていたかどうかは、仕事が終わってみるまで確かめようがない。「頼りがい」というのは、無条件的に人の頼みに耳を貸し、引き受けられる(ガッツがある)かどうかの部分に関わっており、「責任(能力)」とはジタバタせずに約束を履行する能力(そして履行できないときに、何らかのオプションを用意する能力)に関わっていると私は考えるからである。

もちろん、頼りになって、しかも責任を引き受けられるという、それこそ本当に甲斐性のある人物もこの世には少なくないだろう。また、責任を進んで引き受けられる人が、そのために「頼りがいがある」という穏当な評価を受けることもあるだろう。この意味では、<責任>は<頼り甲斐>の条件のひとつであると言うことは可能であるが、その逆は必ずしも真ではない。

日本での「責任を取って辞めさせていただく」とか「責任取って辞めろ!」という物言いの不可解さも、「頼り甲斐の度合い」が“皆さんの期待”に応えられなかったことに対する「詫び」に重きを置く心理で説明が付きそうだが、私が信じる本来的な責任(responsibility)とはなんの関係もないハナシである。責任とは、断じて条件的なモノであり、通常、約束にともなって発生する観念である(べきだ)。そもそも約束や契約のないところに責任なるコンセプトは入り込む余地はない。そして、「責任を取る」とは問題解決のためのオプションを提示することでなければならず、辞める(詫びる)ことは、なんの責任保持の認定にもならない。それは無条件の期待からやっとのことで逃れる行為であって、そもそもそのような人物に期待して追い込んだ方も等しく悪い。

責任の所在を明らかにしない“話し合い”に参加する人々は、思いっきり断定的に言えば、総じて卑怯者か生来の無責任野郎なのである。

こんな事を言えば嫌な顔をされるかもしれないが、私の考えによれば、ある特定の地位にいるだけでは、その人に責任を引き受ける義務はもとよりなく、彼/彼女が「私に任せなさい」と言った時点でのみ責任が生じるのである。それが「response + ability」 (responsibility) だが、くり返すように、日本においては、条件の有無に関わりなく、ある特定の地位にいる人に、ある種の「甲斐性」が期待されているように見えるのであり、これは本人の意志や約束とはなんの関わりもなく、先天的に備わっているべきこととして期待されているようだ。だから、その人にその能力がないことが露呈するや、彼はより一層の努力をして「頼りがい」があることを示す(稀にそう言うケースもあるが)よりは、あっさりと腹を切ったり辞職したりして自分の「不甲斐なさ」を認めて詫びることとなる。そこには、「そこまでは私の責任ではない」とか「本来的に私はそのようなことをする/しないという約束はしていない」と理路整然と弁護・論証する努力などは誰からも求められないし、本人もその有効性を認めないし、そういう態度はそもそも「いさぎよくない」事になる。

ちっとも誉められたことではないが、ある意味で、こういった社会通念の在り方には“首尾一貫性”がある。もともと無条件的に実効能力や引受能力を期待しておいて、そうでないことが分かるとその人物の首をすげ替えるということだけをくり返してきたわけで、責任というモノが約束に付随して生じる観念であることが理解されていないからこそ起こっているようにも思える。だからこそ、われわれの目撃している「一連の不祥事」が繰り返し起こっているのだということが、まず認識されていないと言える。たとえば、誰かをある地位に据えるとき、われわれがまずしなければならないことは、「おまえ、ちゃんとしろよな」ではなくて「おまえ、ちゃんと約束しろよな」と言うことである。そして「約束できないなら、おまえをその地位に相応しい人物として認定しないぞ」と言えばいいのである。その条件を受け容れた上で、初めて彼には責任が生じるのである。もともと、誰に責任の所在があるのか分からないように、巧妙なまでに曖昧模糊とした物事の“決定”が行われるのが日本人の人生なのであるから、本来的にわれわれは責任とは関係ないところで棲息しているのである。

しかしながら、最初から約束も何もしていない人に対して「無責任だ」とか言う不穏当な評価を下すことをやめない。もし約束をしていてそれを果たさないのなら、彼は立派?に無責任である。だから、誰かが約束と初めから関わらず、単にその仕事ぶりや言動で「無責任だ」と言われるとき、その大概の場合が、単に「頼り甲斐がない」ことを意味しているだけのことが多いのである。

自分の能力をよく理解していて、二つ返事で引き受けることをしない慎重な人間は、確かに一見「頼りがい」のある人物とは思われないかも知れない。しかし、約束したときに生じる責任を誰より分かっているからそうしないだけかも知れず、その場合、むしろ彼は責任感(sense of responsibility)が強いために、かえって「頼りになる」ところを見せないのかも知れないのである。

モノゴトを単純にするために英語の「responsibility」が、ひとつの意味しかもたないような印象を与える話をしているかも知れないが、実は、英語自体も曖昧さを持たないわけではない。日本語にあるような幅を持った言葉である。

「○○には責任がある」という表現の中に、アプリオリに逃れられない役割(約束などの条件と関わりなく)と、場合によっては逃げられる条件的な<責任>(あくまでも約束などの条件によって規定される)の二つがあいまいに混ざっており、だいたいそれを言っている本人がその違いを分かっていないことに、一般の注意を喚起したかったのである。

あなたは、頼りになる奴(reliable person)ですが、それとも責任感のある人(responsible person)ですか? それとも両方? 立派です。私もあなたに肖(あやか)りたいと、心底思うのです。

 

© 2001 Archivelago