衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

なぜ書き続けるのか?

October 5-7, 2001
 
English version

私が書き続けるのは今回の同時多発テロの件に限らず、自分がそのときどきに何を考え何を言ったのかを忘れないため、というのがひとつにはある。長丁場になるだろう今後の「新戦争 New War」(アメリカの報道機関の言い方)の状況で、我々は知らず知らずの内に、少しずつではあるが“人道”にたいする意識(戦争に対する意識)をシフトさせていき、そしてシフトさせたわれわれ自身がそれに気が付かないだろうからである。今疑問に思っていることは、今後も百パーセント確かになることもないだろうし、現在疑わしいことはおおむねそのまま疑わしいまま残るはずである。何かをわれわれが信じられるとすれば、この世に信じるに値する政府も国家も報道機関もないということで、これからどんどん増えてくるだろう時事解説的なあらゆるコメントが、そうした憶測を「真実である」とした前提の上で語られるようになるだろう。おそらく、筆者の書くこの論考そのものさえそうした性格を免れない。

しかしこうしたとき、あらゆる話の前提自体が疑わしい物である以上、その上に積み上げられた全ての論理が怪しいモノであるということを常に思い返さなければならない。戦争という局面にのみ限って考えたとしても、戦争に反対忌避している者がいつの間にか(条件的・消極的な)戦争支持に回って、さらには知らぬ間に戦争協力者になっているということが十分あり得るからだ。そうしたことは、この国でほんの60-70年前に起きたことだ。われわれは本質的に変わっておらず、我々は暴力装置である国家に対して、本当の意味で無力であり続けた。

すぐに合州国がアフガニスタンへ侵攻/爆撃するのか、このまま睨み合いの状態になるのか、その辺りは分からぬ。ようやくここ数日の間に出てきたのは、タリバン側からのみならず、「証拠を見せよ」という声が各地から挙がってきている点である。当たり前な話だが、アメリカの報復攻撃*に対してすでにNATO諸国や日本などを始めとして「協力」を申し出ているが、こうしたことは証拠が示される以前に行われているわけで、理屈の上ではすでに破綻している。ターゲットになる具体的なテロリストがいるのであれば、その者達の殲滅活動への協力(突き出すことも含めて)を呼びかけるためには、その者が容疑者であることの証拠を見せなければならない。証拠を見ずに無条件的に協力を申し出た連中はもうすでに全部ダメである。

*「テロリストの撲滅のための作戦」という呼び方になってきているが、これは不可能なことを名称にしているだけのモノである。今回のテロに関与した人を形式上炙り出すことは可能かもしれないが、我々が自分たちに生活の方法を止めない限り、テロリストを力で押さえつけ続けることは出来ない。そればかりか彼らにさらなる憎悪の理由を与えるだけである。

合州国政府はついにNATO諸国に対して「証拠を提示した」らしい。我々が知っているのは、「証拠を提示した」というジェスチャーあるいは「証拠を提示したらしい」という噂と五十歩百歩の“報道”だけである。私はそれがどんなものか自分で見たこともない。すでに協力を表明している国家とのあいだで(ということは身内どうしで)証拠を見せ/見せられのジェスチャーをされてもこちらには何の意味もない。最初から疑うことをしない人に証拠を見せても意味がないのだ。証拠に意味があるのはそれを疑う者にとってである。しかし本当に疑惑を抱いている人に対しては証拠を見せない。いままでもずっとそうだった。そればかりか「せめて証拠を見せろ」と言っている本人自体を、振りかぶってしまった拳(こぶし)で撃とうとしているのである。

むしろそれがジェスチャーであるにせよ「テロリストを追う側」が、ようやくここへ来て証拠らしきモノをその協力者と交換し始めているらしいと言うことは、むしろ“証拠”に目鼻が付いて(捏造が)ようやく完成に近付いたと言うことではないのか。これから先、国連を始めとして、「テロリストを追う」ことはともかくとして、アメリカによる積極的軍事行動を快く思っていない諸国は、「捜査協力」に当たってさらなる証拠の提示を求めるかもしれない。しかしそうしたとき、もし合州国政府が納得のゆく証拠を見せた!ときわれわれはどう反応すればいいのか。なるほどと納得してついには合州国の軍事行動を支持する側に回るのか。それはひとつの誤謬であろう。それはそれで証拠を以て納得してしまえば、証拠という名の枝葉のひとつの気を取られて戦争の本質的意味を見失うことを表すだろう。

そう。証拠を求めれば、ことによると証拠を得られるかもしれない。しかし“証拠”を見せられたとき、軍事行動を忌避する者が「それは証拠とは呼べない」「信頼するに値しない」と主張することで、合州国の“行きすぎた軍事行動”の誤りを反駁できるのか。証拠の有無は具体的行動の「正当性」に関わるひとつの問題ではある。しかしそれはエッセンシャルなことではなくて、証拠の有無に関わらず、実はこうした合州国政府のやり方や生き方にこそ問題の根本が潜んでいるであろうことを忘れてはならないのである。

いかなる事態に至ったとしても、われわれは関係するあらゆる国や民族や宗教家達と争うのではなく、話し合いによる互いへの理解の深化の途を閉ざすべきではない。


© 2001 Archivelago