衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

すぐれた言葉 (2)
〜 触媒としての言葉は、どこにでも介在する

February 3 - March 14, 2003
 
English version

この社会で、「自分の知らないことについてコメントするべからず」という教義が一般化したらどういうことになるだろう。そうしたら、われわれは自分の事業なり創作なりの意義も価値もあらかじめ分かって貰えているひとにだけ発信すれば事足りる、あるいはそのような人相手にしか発信できない、ということになり、それを人間の「文化活動」の前提であるとしてしまうと、独善家たちだけの一方的な主義主張だけが空虚に打ち上げられる処と化してしまうはずである。そんな世の中では、シロウトは科学についてコメントしてはならないし、政治に口出しをしてもいけないし、音楽愛好家は専門家のつくる音楽についてアレコレ云々してはいけないという世の中になるのである。素人評論家がそれぞれ好きなことを言うことが百花繚乱のネット時代であるが、その反面、同時に「門外漢」が発言しにくい世の中にもなり果ててしまうかもしれない。(断っておくが、これは素人評論家の増加を讃えたり批判したりする文章のどちらでもない。)

[個人主義の台頭というのは、何も故なく起こったことではない。それ自体の発生は歴史的に必然的な流れのなかで説明できる。そうした流れを既存のこととして前提とすれば、「表現や作品の多様化は、これからの社会で保障されるべき必要なこと」だが、一歩間違うと、「この世の中が、互いが理解し合えない、脈絡も連絡もない個人“創作家”たちの集まりと化してしまう」潜在性もあるわけだ。しかしこの論においては、そうした事柄の是非を問うのが目的ではない。]

だれもが余り気にとめないことであろうが、こういうことがある。すなわち、「どんな専門領域や知識領域であるかを問わず、あなたの知っているそのことは、あなたの知っているほどには誰も知らない」のである。(ここでの専門というのは、別段、ある専門課程を大学で収めたとかいうことと関係ない。自分が特に「経験を通じて知っている」と思っているどんな分野に関してでも良いのだ。もっと言うと、「あなたの人生そのものに関してあなたの知っているそのことは、...」と言い換えれば分かりやすいだろうか?)

私は、部外者もしくは局外者が「自分の知らないことについてコメントする」ということ自体を、むしろ将来の世界への唯一の希望と捉えているようなフシさえある。ここで、言葉という最終ツールの力を信じる筆者の楽観性が頭を擡げてくるのである。というか、そうでないと少なくとも私は完全無欠の「絶望世界」に住んでいることになるのである。でも人間が自分で考え行動できると言うことを想定すると、この世が絶望世界であると言うことはやはり矛盾なのである。

私の信じるモノゴトというのはこういうことだ。

そもそもわれわれは、互いが理解できないし、共有する抽象概念も少ない。
「知らない」からこそコメントする。
「理解できない」からこそ議論(対話)は誘発される。
議論(対話)が起こるから、以前より隣人が理解できることになる。
(ということは、われわれは以前より賢くなる。)

すると、さらに互いが理解できていないことが新たに発見される。そこで、

「知らない」事についてコメント/質問をする。

この繰り返し。

しかるに、たとえば:

Aは、Mというものについて知っている(と思っている)。
Bは、Mというものについて知っている(と思っている)。

この2人が、現実的にMについての「完全な知識・理解」を共有しているなら、このふたりにお話し合いの必要はない。「う〜ん、そーだそーだ」と頷き合って、互いの理解共有を確認して、それでおわりである。こうした人々は「類友(るいとも)」なので、互いに集まりがちだが、実は、こういう人たち同士こそ言葉の交換が無用のはずなのである。そして、このばあい、こうした人たちは大概の場合「ラッキー*」である。

* しかし、この「ラッキー」は、みんなしてごくごく狭い世界に住んでいるから保障されているにすぎない、という可能性もある。われわれを区別し、分け隔てるその厚いカーテンがある日すべて取り除かれたとき、その狭い世界でだけみんなは裸になれただけかも知れない。あるいは、Mについての理解をみんな(ふたり)が共有していると思い込んでいるだけかもしれない。しかし、もちろん思い込みというのも「現実の世界」の立派なありかたのひとつだから、それ自体をその理由では排除しない。われわれは現実におけるガチガチの論理的相互理解よりも、平和で争いのない「誤解ある世の中」の方がむしろ価値があるという可能性だってあるのだ。幻想をそう易々とバカにしてはいけないよな。云々...。

さて、Mというものについて、異なる見解があるからこそ、その理解の調整機能として「お話合い」が起こる。それは、議論と呼べるようなものかもしれないし、あるいは、単なる意見の主張し合いかも知れないし、場合によっては口論というようなものにさえ発展するかも知れない。

しかし、どういうものであるにせよ、こうした言葉の交換こそ、こうした互いの理解欠如の穴埋めを可能にする唯一の機会として存在している。人類は伊達や酔狂で言語能力や抽象能力を発展させてきたのではない。言葉が、ひとりひとり「少しずつ違う理解」や専門能力や専門知識で人と人を結びつけているのである。

そもそも、Mという専門分野が、それを知っている人たちのためのものでしかない、としたら、それは「関係者」同士でしか分からない暗合(符丁)のようなものを扱っているということになる(それで良いのだというひともいるらしいが、ほんとうにそうか?!)。Mという分野が、表現や創作に関わる類のMであるとすれば、そのMを通じての表現や主張は、よほど狭いひとしか最初からターゲットにしていないということになる。くどいが、ホントーにそれで良いのだろうか?

でも「知らないことにコメントするな」と言えてしまう人にとっては、その分野が掛け値なしに「良い」と思っているから説明することさえもどかしい、らしいのはそれはそれで理解できる。しかしそうした諦めや専門家としての傲慢が、Mという創作物の伝達能力に関する潜在性を過小評価して、狭い人間関係の中だけに押し込めているのではないのか? 筆者は自分ですでに立派な仕事をしているなどと主張しようというのでは毛頭ない。公的に何かをやるということは、いかなる形で評価の対象になってもおかしくはない。しかし、筆者にとっては、それに触れたこともない人に訴えかけられるモノこそが、創作家の仕事のうちで「評価」が可能な部分なのだろうという謙虚さは少なくとも持っていると思う。そもそも最初から解る人だけを相手にして、一般人による評価の対象外でやっている「創作活動」に、どんな「創造性」や「対外的かつ遠大な目的」が宿れるというのだろう。

もちろん、仕事という分担作業自体が、ある程度「隣接する別の専門家」を相手にしているという現実も筆者は心得ているつもりである。世の中のすべてのひとが、あらゆることについてのノウハウや知識を等しく持っていて、実作業をこなすことができるのなら、そもそも分業の必要がない。そして、誰かが誰かに仕事を発注したり受注したりする必要もない。

ある技術的な問題をAがある程度わきまえており、Aより若干詳しいBがいるからこそ、AはBに仕事を依頼できる。しかし、BのできることをすべてAが知っているのであれば、Aが自分でやればいいということになる。かといって、AがBのやっていることや、やれることを全く理解できないとか、あるいは知らないということになると、AがBに何かを頼むということ自体が成立しない。そして、お互いが少しずつ違うノウハウを持っていて、唯一彼らを結びつけているのは、言語とそれを介在して育てた信頼なのである。こうした人間の在り方は、隣り合う細胞同士が極めて似た機能を持って隣接してひとつの生体を作っていることと似ている。しかし、厳密にはひとつとしてまったく同じ機能を持った細胞などはなく、微妙な役割の違いを持ってそれぞれが存在しているはずなのだ。

Aは、O(=K+L)というものについて知っている(と思っている)。
Bは、P(=L+M)というものについて知っている(と思っている)。
Cは、Q(=M+N)というものについて知っている(と思っている)。

Aは、Bの仕事の一部が理解できるから、Bに仕事が頼める。
同様に、
Bは、Cの仕事の一部が理解できるから、Cに仕事が頼める。
でも、
AはCと共有するものがないから、おそらく直接Cに仕事が頼めない。
(しかし、 AがBに、BがCに、というような連鎖で人間の関係がつながっている。)

おそらく、これがわれわれの世の中のありかただろう(ここでもその善悪を問題にしない)。

つまり、Aは隣人Bをややよく理解しており、Bは隣人Cをややよく理解しており、Cは隣人Dをややよく理解しているという連鎖で、全体として蜘蛛の巣のように仕事(専門)の連鎖が絵を描いているのが社会構造である。蜘蛛の巣のあらゆる場所に無駄がなく、蜘蛛の巣のあらゆる場所が、それ自体で蜘蛛の巣の一部であるという役割を果たしているのである。

この点に関して言えば、われわれは、自分に比較的近い隣人のために何かの仕事をしているというのは、おそらく真である。まったくかけ離れたひとに対して何かを頼んだり引き受けたりすることは、めったに起こらない。そういう意味で、創作的な作業を仕事としているひとにとっても、あらゆる人間がターゲットなんかではなくて、おそらく一部の訳の分かったひとに対して仕事をしているという状況があるのも、ある程度は頷けるのである。

しかし、ここまで説明した上で言えるのは、Mというものが、人間の関係的連鎖の中にあるものではなく、本来的に「言葉や習慣を超えて通じる共通言語」として発信され、無差別的に届くこと期待されている類の何かであるとすれば、最初からターゲットが絞られている(あるいは特定の趣味人をターゲットにしている)と考えることは、寂しいことではないのか。と言うより、Mに対するアンフェアな過小評価ではないのか。思いがけない人の心を奪い、思いがけないひとの人生の方向さえ変えてしまうからこそ、われわれはそうした創作というものに憧れ、創作に打ち込む一部の人々を敬愛してきたのではなかったのか? この無差別的なMの伝搬力こそがパンドラの筺の底に残っていた最後の「希望」だったのではないのか?

いつから、創作家と呼ばれる人たちが狭い自分の関心のみに囚われ、それを押しつけるようになったのか? もし誰かから、「難解だ」とか言われる創作分野で活動しており、それについて「理解しづらい」という率直な意見があるのであれば、その人物は一度は立ち止まってその意味を誠実に考えた方が良いのではないか。

われわれが自分の意志でこの世に生まれてきたのではないと言うことを前提とすれば、どんな無知も悪くない。われわれの生きている立場が自分で選べなかったという前提を肯定すれば、どんな無知にも罪はない。そして「周囲」が自分のやっていることに関して無知であることも悪くない。無知であるからこそ、あるいは無理解であるからこそ、辛抱強く、相手が分かるまで自分の知っている世界を、その世界の良さを、それが歴史的にどのような効果を持ったものであるかを、すなわち、「言葉で補えられ、説明可能な意義」に関して説明の労を払う価値がある。正に、これはしつこく言葉があらゆる分野に介在してくる理由である。そして、透明で正直な言葉は欺瞞やごまかしを浮き彫りにする。

さて、幾つもの対立する前提を持ち出しているのですでに混乱を来していそうだ。だが、ここで最後のディレンマに言及する必要がある。言葉による説明の意義を今まさに肯定したばかりだが、ここにまたもうひとつの課題がある。それはこういうことだ。あなたは言葉で説明して、誰かにあなたのMが理解されたとしよう。だが、あなたは喜んでばかりもいられない。なぜなら、あなたにとっての(言語活動を除く)Mとは、「所詮説明をしなければ理解されないようなこと」なのであるからだ。それはそれで表現者としての一大問題となる。この論にも最終的結論はない。すべての結論には固定的な前提があって成り立つ話である。

最初から、明らかな敵意なり悪意をむき出しにして、自分のやっている仕事に「疑問」をぶつけてこられたら、確かにうっとうしいかも知れない。しかもそれがしょっちゅうだと「いい加減にしてくれ、もうちょっと勉強してから出直してくれ」とも言いたくなるだろう。しかし、それが専門誌に載せられるような記事の取材をプロと称するジャーナリストから一方的に受けたのならいざ知らず、あなたのやっていることに目を触れるチャンスのあった一般の人々の率直な意見なら、それを無視することは考え物だろう。しかし、このように自明なことに理解が示されず、それらが無視されて、それでも良しとしてきた独善的分野というのが、われわれの住む現代の社会には、残念ながら、あちこちにある事は心に留めて置いても損はない。

そして、そうした独善を見抜く眼力くらいは身につけておきたいものである。


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