衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

小説を書いているのではない
July 1-4, 2001
 
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私は小説を書いているのではない。折に触れて詩らしきものは書くが、この庭園内で広いオーディエンスに向かって無差別的に発信するべきものだとも思っていない。しかし、ひとたび発信されるとなれば、詩に関しても音楽に関しても、もちろん発信者として、私はそれに接する人に「同化」する事を望むのであって、最初の体験は感じること(感覚の世界)であって、それを捉えることは、「同化」を通じてこそ達成されるに違いないと他ならぬ私が、信じているのである。しかし断っておくが、一旦言語化されたものは、すべて観念なのである。私の文章だけがそうなのではなく、<本物の詩>や<本物の言葉>を除くすべてが、一旦主張されたとき、実は観念となるのである。

人好きしない言葉だが、おそらく大概の<表現者/創作者>が、自分の作品に人が「同化」することを、大同小異望んでいるに違いない。私が取り立てて特別ということでもあるまい。人が実際にそれをどう思うかは知る由もないが、私の<表現/創作>の現場に立ち会う方々に対して、私自身がある種の「同化」を通じての把握を強く望んでいるのである。もちろんそれを可能にするための努力(自己への集中)を発信者側の私は私で払うわけだ。一方、私が他人の音楽に接するときの最初の仕方も、正に「同化」すること以外の何ものでもない。それは望むとか努めるとか何とか言うものではなくて、そうなるのである。「もっと“客観”的に聞いた方が良いのでは」などと知的分析家の何某に言われても、そのような態度で人のつくるものに対峙することは、私にはむしろできない。

さて、私の書く言葉を見て、「頭で考えている。感じていない」などと簡単に口走る人は今までに何人もいた*が、この私自身がおそらく多くのひとよりも、「感じること」を真っ先に行っていると主張することだって可能なのである(敢えてそうしない。だって、どうして私の感じ方が他の人よりも強いとか不遜にも主張できましょうか!)。どこか別のところでも断っているが、ことに私の積極的な音楽への「参加 involvement」は、聴くときの態度でも基本は同じなのである。もちろん、残念ながら見るもの聞くもの読むもののすべてに等しく「同化」できるわけではないが。

*「私」になったことのない「あなた」に、どうして「私」の感じ方や感覚世界が分かるというのですか? それに「考える」行為は、頭でやることに決まってるじゃないですか! 頭で「感じ」たりハートで「考え」たりするんですかね。

しかしモノを叙述することは、感じただけで終わらせまいとする第二段階の選択であって、たとえば音楽を楽しんだ(あるいは楽しめなかった)後に初めてコミットできる全く性格を異にする「別の作業」である。次元が違うのだ。もちろん、書くことができなかったからといってある作品を鑑賞できなかった事にはならない。書くこととは正に、感じてしまった「あるもの」を「別のあるもの」と峻別し、味噌とクソを区別し、整理することであり、細分化し、論じ分けることであり、まさに分別的と言ってよい作業である。それが私の論述作業が目指すものである。繰り返すように、私は小説を書こうとしているのではない。私の“評論の試み”に他人の感覚的「同化」を求めるものではない。同じ言語を扱うモノだからと言って味噌とクソを一緒にしてはいけない。もちろん、私が書くこのような退屈なものを皆が等しく楽しめなければならないという謂われはない。必要な人が必要な時に故あって読み、何かそれからより正しそうなひとつの理屈の道筋(あるいはその誤謬)を辿って頂ければ良いことなんである。

第一、感じなかった者が何かを論ずることができるのか。自分が捉える前に何かの本質に到達できると信じられるのか。それをやろうとする者はいつでもいる。人の教えや示唆をそのまま真に受け、権威に屈し、自分で検討せず、体験せず、個別のものであるべき他人の経験や理論を、自分のそれと平気で「同化」させ、それを自分の体験だと思いこむ。あるいは、自分と見解と違った論述を見つけると、それを「観念」と決めつける。そういう人こそを観念的だと呼ぶのである。

それでは、なにゆえ分別し論じる必要があるのか、と誠に本質的かつ正統的な疑問をもたれる方もいるかもしれない。それについては、自分の行なう行為(action)とそれによって引き起こされる結果(outcome)との間の因果関係を量り、ある試みを2度3度とくり返した場合に、2度目よりは3度目、3度目よりは4度目に、自分の期待に添った結果を実現したいと考える人がすればいいことなのだと言える。つまり、それを目指さない人が自分の行ったことを顧みたり分析したりする必要は一向ないのである。やったことはやったことなんだ、とすべてを「好し」と受け容れられる人には、思考など全く無用の長物であり、不要の作業であり、時間の無駄である。そしてまた、やろうと思って誰にでもできる作業とも限らぬのである。

すべての人に必要なことではない、と言ったのはこのためである。

こうして私は文章を書く。今でもそうだが、私は書くのがとりわけ得意なわけではない。ご覧の通り、文章がうまいわけでもない。しかし以前よりは今の方が、人に分かって貰うための<手段としての文章>を自分に書かせることの“差し向け”に、ある程度成功していると思う。書くことはひとつの鍛錬であり、頭の整理であり、自分の感じ方の流れに正直になるための近道である(そして、音楽とは別物の、それからしか得られないひとつの歓びである)。ひとたび捉えられ保存された経験は、別の場所に一旦移され、突き放され徹底的に分析されることで、自己憐憫と自己欺瞞とから自分を解き放つ(もちろん、その方法は重要だ)。いずれにせよ、私が考えたりモノを書くからと言って、どうしてこの私が「ものを感じることを発端にしていない」などと考えられるのだろう。

最初に断ったように、すべての言葉は所詮、観念であることをまぬがれない(観念であること自体が問題なのではなくて、どのような“意義ある観念”にできるかがわれわれの課題なのである)。化学の権化であると廣く信じられているところの“数学”における発見も、“物理学”における発見も、その端緒は“感覚”的な内面世界における瞑想を通じて到達した直感的発見としか思えない場合が往々にしてあるそうだ。しかし、それが数式などで表現されたとき、それは断じて観念となる。だが、観念に「昇華」したからこそ、万人との共有が可能となり、それは応用される。いかに厳密で主観を排除したかに見える記述でさえ、そうである。

もちろん科学が万能などとは露ほども思わない。そして告白するが、私の記述の中に何らの科学性も神秘性も主張する気はないが、歴史的に「重要」とされる科学的発見でさえ、こうした「正統的な科学的」裏付けだけで説明できない、いわば「霊感 inspiration」が関与しているとしか思わせないことが多くある。そもそも、その意味で「科学」的な姿勢や「感覚」的姿勢という区別も、全くわれわれの観念上の便宜を超えるものではない。そのような区別こそが、実は排除されるべき否定的な意味での「観念」のひとつなのではあるまいか?

誰だか“山師的グル”が宣ったとか言う言葉、「西洋の知識と東洋の知恵をとり、それを求めなさい」というアドヴァイスを、思い出す今日この頃である。


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