衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

「思想」の限界

June 17-20, 2003
 
English version

思想というものは、それを深めた当人ほどに他者が理解することが出来ない。思想が言語の扱ってくれる専門分野であるという思い込みに捕らわれている限りは。

しかし、言語による伝達可能な全体の中のごく一部分を当面、「思想」と呼ぶことは出来る。

思想がそれを深めた当人ほどに他者が理解することが難しいというのは、とりわけそれがわれわれの生きている社会において未だ新しいものであったり、とうの昔に忘れ去られたものであったり、いずれにせよわれわれにとっての「コモンセンス」と化していない場合、特にそうである。われわれは、たとえば『資本論』の重要さを噂(報道)や教育(運動)によって極めて偏った知識の断片として知っていても、今日のわれわれはマルクスがかつて掛けたのと同程度の時間と情熱をそのテーマに費やすことはおそらく出来ず、仮にそれができたとしても、そのときは『資本論』はもはやわれわれにとって問題解決のための道具でも適正な批判の対象でもなくなり、一生かけて追求しても尽きないマルクス思想の共有、またはマルクス本人への共感(もしくは全否定)という「人生の目的」と化してしまうだろう。われわれは、ひょっとするとマルクスと同程度に、その問題を理解し論じることさえできるようになるかもしれない。が、そのときわれわれはもはや『資本論』の専門家になってしまっているのであり、われわれはこの世の不条理を解決する力をもはや備えていないに違いないのである。

マルクスの問題を採りあげたのは、飽くまでも、思想とそれを具現化する政治運動というふたつの間に厳然として存在する極めて現実的で深刻な人間の問題を単純化する方便としてである。マルクスの思想に限らず、思想の現世的具現化にともなう困難は、私が敢えて具体例を挙げるまでもなく、思想の「一見した正しさ」の行使が、歴史的にどのような方法によって可能であったのか、そしてまた「一見した成功」の裏にどのような犠牲や矛盾があったのか、を無視して済まされるものではない。そして、「反思想」的な「別名の思想」の運動 (counter movement) がそれに対抗して、「思想」の具現化の不条理に劣らぬ暴力的手法によって自分らの「自由」を守ってきたことも、「思想」の問題の一側面として忘れることができない。(あくまでも「思想」とはわれわれの目に見えて顕現された運動、すなわち、思想の一部を切り取ってきたものなのである。)

だが、ここで採りあげたいのはそのようなことでもない。これらはさらなる論議への前提に過ぎない。ここでの話題とは、われわれにとって採用可能と思われる思想の伝達方法のオルターナティブについてなのである。そして、それは「思想」の限界と言うよりは「言語の限界」に関わる考察なのである。(言うまでもないが、真の思想に限界などない。)

本来、思想が政治やわれわれの人生観の変化に結びついていてこそ、思想と呼ばれるに値するものであったにせよ、思想はむろん政治思想だけではない。経済や個人の人生、そして宗教的かつ集合的生活に関わるもの、さらに極めて小規模の「芸術」家集団の中にも、思想は付き物である。その点で言えば、たとえば「オルターナティブな経済のシステム」の良い点悪い点、あるいは神秘思想として命脈を保ってきた一方で今日懐疑される傾向にある「体系」の隠れた役割や機能についての再評価、などなど、をわれわれのディスカッションの俎上に載せ、一旦真剣な論議の対象に据えようとしたとき、それを成立させるために共有されなければならない純粋な情報や知識だけでも実に膨大なものである。各個人にそれぞれのライフワークがあり、すでに社会の歯車のひとつになってペルソナを生きているわれわれのひとりひとりに、一体どれだけの思想の共有が可能(あるいは必要)、なのであろうか。「思想」の共有は可能だろう。書かれたものは読むことが出来る。無論、それ自体簡単ではないが、ひとつの効果を期待することは出来る。だが、思想を基礎として議論の糸口を見出そうとしている個人レベルでの求道的努力が、一体われわれの世界のどこで統一の日の目を見、報いを得るのであろうか?

このように考えたとき、「優れた言葉」(あらゆる本質的なコミュニケーション手段を含む)を獲得しようとするわれわれの試みの行く手には、大きな障害が横たわっているのを予期せざるを得ない。その障害の大きさの前に、われわれは仕事を始める前に圧倒され、それだけで憂鬱になってしまいそうである。

確かに、われわれの生活する今日の世界は、われわれがある思想の正しさや理想のあり方を他者に伝えようと考えたとき、その伝達手法として、時に、長くても2時間くらいで収まるほどの簡潔さで語られなければならないし、その上、その問題の複雑さでさえ差し引かないものとして表現されなければならない。われわれは直感的なモノゴトの把握を可能とする受け手側の能力を信頼しなければならないし、その思想の内容が必ずしも発信者の意図したものとして伝わらないかも知れない、という悲しい危険もわきまえた上で、それに立ち向かわなければならないのだ。

言葉を媒介として伝達することを選べば、どのように厳密に語られた思想も、その概念の言語による完璧な包含は不可能である。語られる言葉の厳密さを追求すれば、長期的には誤解を避けることは可能かも知れないが、受け手にとっては単純なひとつの事実を読みとるのに、それ以上の分量の膨大な注釈に付き合わされることになるだろう。今、重要な何かを緊急に伝えようとするならば、「火事だ、逃げろ」というような簡潔な表現のあり方を検討せざるを得ない。火事とは何なのか、それは本当に火事なのか? もしそうでないとしたらなぜ「火事」でなければならないのか、そのような注釈を用意したり読み解いたりしている内に、われわれは一斉に命を落としてしまう可能性がある。一方、単純明快な主張や説明によっては、長期的に発生するかも知れない誤解や、意図して「誤解」を読みとろうとする現世の悪意の解釈者たちから身を守ることは困難となる。

こうしたときに私が信頼する“言葉”とは、結局この文章を成立させているような言語ではなく、象徴を介した絵画的な表現をとることが検討せざるを得ない。絵画的と言ったが、「寄るな、危険」を意味するサインボードのようなものも当然あるが、だからといってそれが文字通り静止した二次元的な図象である必要はない。それはある種の動作(作法)かも知れないし、音を伴う映像かも知れない。あるいは、焼き物などの日常的に目に触れる形(道具)や人の出入りする建物の装飾などを通した表現形式を取るかも知れない。はたまた、それは着ることの出来るものかも知れない。そして、言葉であって言葉に非ざる<詩>という表現もここでは忘れるわけにはいかない。いずれにしても、危機的状況の世界の在り方を効果的に伝えるためには、「視」覚的な方法を以てしか伝えられない「ことば」を取らざるを得ないのは、ほぼ確実なのである。

その「視」覚的表現は、他人の時間を借りるという贅沢が可能なのであれば、言及した「長くても2時間くらいで収まるほどの簡潔さ」というわれわれの多くに親しみのある表現形式の採用も選択肢の範疇に入ってくるわけである。確かに、ものを作るときにその「採算」は、つねに現代人にとっての問題であって、どうでも良い話ではない。しかし、人に伝えられることの重要性に立ち戻ったとき、それが売れるかどうかを考慮することに一体どれだけの優先性があることなのだろうか? 形式はジャンルの認識を産み、ジャンルは経済システムと連動してその利便を発揮してきた。われわれがジャンルや形式以上に、その中身(コンテンツ)の重要性と伝え方の方法に心を砕くことを忘れないならば、すべての表現方法には、それに相応しい発表の場があることに気付くかも知れない。映像は映画館で上映されたりテレビ放映されなければならないことを意味しないし、絵画がギャラリーや美術館で展示されなければならないとも限らないのである。

(好意的に言えば、いわゆる「現代アート」に関わっている専門家の一部は、じつのところそのあたりの柔軟性に気付き始めているかもしれない。発表の場の選択というのが制作の手段や方法を考えるのと同じだけの重要性を持つことに気付き始めているという点に関して評価するならば。)

思想を絶えざる努力で深めていき、かつて人類が到達し得なかったような深淵を窮めることというのは、自然な思索傾向にある者たちにとって、大いなる勇気と人類愛(あるいは人類への愛:自己愛)を培うものであることに疑いがない。しかし、他者の追従を許さない(ということは、他者と共有できない類の)深みを持った思想というものが、結局誰にも気付かれずに思想の海溝の深みの中に置き去りにされるとすれば、それはそれでひとつの独善に過ぎなかったという言い方が出てきても、それを無条件に排除することが出来ない。それがいかなる深淵であるのか、それが深淵であり得るのは、深淵を測ったり把握できる他者の出現があってこそである。その他者を、われわれの隣人と考えるのか、後世の子孫と考えるのか、あるいは地上を這う者たちをそもそも想定しないのか、それによって発表の仕方には違いが出るであろうが、いずれにしても、なんらかの受け手の存在を想定するならば、その深淵を顕現させる、しかも包括的・鳥瞰的に垣間見せる手法の獲得が必須となる。

深みを窮めることに努力を惜しまず、そうした伝達の技術面に関して無関心であるような思想家(文学者)というのは、ことによると生前の成功に無関心であると言うよりは、来るべき時に「神」によって褒め称えられることを期待している来世信仰のようなものに支えられていると言えるのかも知れない。それについては言うことがない。その信仰の「正しさ」はやがてそれぞれに証されるときが来るからである。現時点でのそれについての論議は、余り実りのないものである。われわれはまず、われわれの言葉が届く生活圏の中で地道に思想の共有を目指すために手法を洗練させ、出来ることのひとつひとつを試していく以外に方法はないのである。われわれが最低限の希望を失わずに、憂鬱の発作に圧倒され、絶望に敗北しないだけのオプティミズムの態度を忘れずに。


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